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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第一部 コーチ兼任から引退へ

⑤ 最後のユニフォーム姿

 鹿児島県指宿で行われたチームの合宿中、土田は毎晩自宅に電話した。特に用事もなく、2人の娘の声を聞くぐらいだ。電話の最後に江美子さんが聞いた。

「身体、大丈夫?」

 土田はこう答えた。

「うん。おれは、それほど身体を動かしてないから」

 何それ? ケガでもないのに身体を動かしていないって、どういうこと? みんなと同じに練習しているんじゃないの? 兼任コーチってメニューを組んだりするだけじゃなかったの?

 電話の切り際に夫が言った言葉が気になって仕方がなかった江美子さんは、次の日から電話があるたびに少しずつ様子を聞き出していった。

「(GKを相手に)ボールばっかり蹴っているから内転筋が痛いよ」と電話で言う夫に、「そんなことばかりやってるの?」と大声を上げてしまった。

 

「現役選手でやれるのは、今年が最後かもしれない」という覚悟はあったが、すでに「今年」が終わっているなんて考えられなかった。ほかの選手と競い合って、その結果出られないなら仕方がない。しかし初めから選手としての道が閉ざされているのは納得できない。

 合宿から帰った夫に対して、毎日のように江美子さんは言った。

「あなたは選手なんでしょう。それじゃ、自分の練習ができないじゃない。試合に出られないじゃない。『兼任コーチ』を外してもらえば? もう一度、クラブの人と話したら?」

 土田が練習から帰って来るたびに「今日は横山(GM)さんに会ったの?」と尋ねる江美子に、とうとう土田は怒鳴ってしまった。

「うるさいんだよ!」

 

 99年、自分はケガで一度も試合に出ずに、レッズはJ2に降格してしまった。キャプテンだった土田は「落とした責任」を人一倍感じていた。

 同時に「絶対に1年でJ1に復帰する」、という決意があった。当然、GKとしてチームに貢献するつもりだったが、斉藤監督はコーチを兼任してくれと言う。それが必要なら、と要請を受けた。

 始まってみると兼任ではとても務まらない。返上することも考えたが、悩んだ末に、コーチに専念することにした。

(俺だって何度もそう考えて、無理に結論を出したんだ。これ以上、言わないでくれ)

 自分自身が100パーセント納得している訳ではなかっただけに、妻の言い分はよけいに胸に響いた。 

 江美子さんは当時を振り返って、「私の方が往生際が悪かった」と言う。このことを巡って夫婦喧嘩がなくなったのは、開幕してしばらく経った6月ごろだった。

 

2人の娘と最後に2人の娘と一緒にユニフォーム姿になった土田

(2000年11月19日、駒場スタジアム)

 ところが今度は2人の娘が質問する。

「パパ、どうして試合に出ないの?」

 これまで土田がケガをしていなくて試合に出ないときは、同じことを聞かれたら「順番こ、なんだよ。1人がずっと出てると疲れちゃうでしょう」と言っていた。しかし今回は答えに詰まった。

 今年で本当に引退するなら、最後に娘たちに父親のユニフォーム姿を見せたあげたかった。

 試合のたびにベンチに入るでもなく、立って声を出している土田を見るのが江美子さんはつらかった。

 2000年11月19日、レッズがJ1復帰を決めた日、土田は娘たちと一緒にゴールの前で写真を撮った。1年ぶりに袖を通した、そして選手として最後のユニフォーム姿だった。

(第一部 終わり)

 

【メモ】

土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。

 

(文:清尾 淳)