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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第二部 プロサッカー選手として

① 入社直後の2部落ち

 1989年4月。土田尚史は、大阪経済大学を卒業し、三菱重工業に入社した。所属は「冷熱事業本部空調機輸出課」。

 サッカー選手として活躍することを期待されて三菱入りしたが、あくまで身分は会社員。サッカーをやって給料をもらうわけではない。朝は8時半に丸の内の本社に出勤し、午前中は仕事をする。また三菱は、新入社員に1年間、週2回の英会話講座を受けさせている。毎週、英語で「ウィークリーリポート」を提出する義務もあった。

 3時間、社員としての時間を過ごした後、社員食堂で昼食。サッカー部員は11時半から食べてよいことになっていた。

 食事が済むと、ほかのサッカー部員と乗り合わせて車で調布にあるグラウンドに向かう。午後2時に練習が始まり、約3時間汗を流した後、また車で世田谷区の成城にある独身寮に帰る。サッカー部員で独身者は全員、寮に入らなければならなかった。

 

 30人弱のサッカー部員のうち、三菱重工業の社員と三菱自動車工業の社員が半々だった。1990年からサッカー部は三菱重工業から三菱自動車に移管され、土田たち重工の社員がそこに所属するという形になっていた。

 三菱サッカー部は、日本サッカーリーグ創設以来の名門で多くの栄冠を獲得していたが、1982年に日本リーグ1部で優勝して以来、タイトルから遠ざかり、土田が入社した89年の春には最下位で2部リーグに降格してしまった(当時のリーグは秋春制だった)。

 新興勢力の日産自動車、読売クラブなどが選手のプロ化、外国籍選手の獲得などによって、力をつけてきた結果だった。

 

 三菱サッカー部は、1部復帰を目指すと同時に、アマチュア主義、純国産主義のチームの在り方を考え直すべき時期に差し掛かっていた。

 土田の社会人としてのキャリアは、そういう状況のチームからスタートした。

(続く)

 

【メモ】

土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。

 

(文:清尾 淳)