さいたまと
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COLUMN●コラム


#070
  テレビのスポーツ中継はノンフィクションか


 先日、レッドダイヤモンズ後援会のスチュワード向け勉強会で、元全日本女子バレーボール選手の三屋裕子さんのお話を聞いた。三屋さんはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得したときのメンバーで、現在Jリーグの理事を務められている。

 お話が大変にお上手で面白く、1時間半があっという間に過ぎてしまった。その内容の多くはMDP162号で紹介したが、一つハッとさせられた話題に、「メディアを通したスポーツはフィクションかノンフィクションか」という問い掛けがあった。

 テレビでサッカーの試合を見るとき、画面にピッチ全体はまず映らないからボールを中心とした画像となる。その時点ですでに、画面の外で起こっていることは視聴者にはわからない。もちろんスタジアムで観戦しても、全体を常に見ている訳ではないだろうが、それはその本人が見逃したのであり、そもそも画面に映っていない場合とは違う。ましてやアップにしたり、リプレーしたり、ということになると、完全にテレビ制作者の意図が入っている。だから生中継だからといって、テレビを通したらノンフィクションではなくノンフィクション的なフィクションだ、と三屋さんはおっしゃる。

 なるほど、と思った。僕はテレビではなく活字の仕事をしている訳だけれど、そもそも「客観報道なんて厳密には存在しない」と思っている。ましてやサッカーの試合をきちんと伝えるなんて不可能に近いとずっと思っていた。レッズの試合を取材に行って、翌日のスポーツ新聞を見る。そうすると「違うなあ」と感じるときがある。記事が間違っているという訳ではなく、その試合のとらえ方が、スポーツ新聞の記者とレッズサポーターでもある僕とではまったく違うのだ。元々の立脚点が違うのだからしょうがない。どっちが正しいとかいう問題ではないのだ。

 同じ試合を報道したものでも媒体によって受け止め方が違う。スポーツ紙はどの新聞も同じようなとらえ方をしている場合が多いが、これは記者同士のディスカッションが活発なことの表れだと思う。Jリーグのナイターなどは試合が終わってから締切りまでに時間がないから、深く取材して独自性を求めるより、みんなで情報を交換する方が合理的なのだろう。僕はスポーツ紙の記者というのはお互いにライバル意識ムンムンなのかと思っていたが、初めてJリーグの取材の現場に言ったとき、記者同士が仲良く意見を交わし合っているのを見て意外だった。もっとも心中では、他紙にはないネタを探そうと虎視眈々なのかもしれないが。

 話がそれた。とにかく活字では試合そのものを全部伝えるのは不可能だから、一番特徴的なところを抜き出すか、総合的な評価を書くしかない。そこで書き手の主観が入ってしまうから、客観的な事実とは違うのは当たり前だ。読み手もそれを了解の上で読んでいるはずだ。

 しかしテレビは新聞とは違うと思っていたが、やっぱりフィクション的な要素が入るというのは、いまさらながらに気づかされた。三屋さんの講演は機会があったらぜひ聞いてみるといい。

 ちなみに僕はいま「シドニー五輪女子バレーボール最終予選」を見ている。サッカーの「アジア最終予選」というと二次リーグを勝ち上がってきたチームの集まりだが、バレーボールの「最終予選」は各大陸予選で勝てなかったチームの、いわば「敗者復活戦」だから、世界のレベルはこれより相当上かと思うと本大会が楽しみになる。ルールが変わったり、ジャニーズが来たりして、しばらくバレーボールのテレビ中継は見なかったのだが、三屋さんへの義理もあるので、今回は真剣に見ているのだ。

 

(2000年6月21日)