さいたまと
ワールドカップ





COLUMN●コラム


#099
じゃあ、お前やってみろよ


 どういうジャンルであれ、「リーダー」という立場にいる人なら一度は口にしたくなるセリフ。
 「じゃあ、お前やってみろよ!」
 一生懸命やっているのに成果が上がらず、周りからヤイのヤイの言われると、ついにキレてしまって、この言葉を吐きたくなってしまうのではないか。
 しかし、実際にこう言った途端、その人のリーダーとしての威厳は急降下する。なぜならそれは、責任放棄、投げ出しだからだ。
 「よし、じゃあ俺が代わるよ」という人があらわれたら、それでリーダーという地位は実際に消滅してしまうし、たとえ「いや、そんなこと言わずにこれからもやってよ」
と周りからなだめられたとしても、そのリーダーに対する信頼度は今後「?」マークが付くだろう。
 だから、優れたリーダーの資質の一つには「じゃあ、お前やってみろよ」というセリフを口にしない人、という言い方もできそうだ。これは、サポーターグループのリーダーなどには特に強く当てはまるはず。信頼関係が最大の基盤だから、それを自分から傷つけるような事を言ったりしたりすれば、周りの支持が揺らいでしまうだろう。

 レッズの前代表、中川繁さんが99年の暮、「辞任要求署名」まで突きつけられたのに辞めなかったとき、大ブーイングを発したサポーターがかなりいた。実際にレッズサポーターの何割が「辞任」を望んでいたのかというデータはないし、僕の知っている熱いサポーターの何人かは「誰がやるか、より何をやるかの方が大事」と思っていた。しかし積極的に「中川、横山辞めるな」などという声が出ることはなく、聞こえてくるのは「社長、GMの辞任は全サポーターの願い」とか「ここまで辞任要求が高まっているのに、座に居すわる奴らに鉄槌を」などと、まるで政党の宣伝みたいだった。
 まるで前大阪府知事や前総理みたいな扱いだった訳だが、中川さんは辞めなかった。
進退伺いを出して責任を取るつもりだったようだが、親会社である三菱自動車は、それを許さなかった。「ほかに人がいないから続けるなんて情けない」という声もあったが、見方を変えれば、あの時期のレッズの代表という立場は、それほど割に合わない仕事だったのだ。舵取りは難しいし、批判の矢面には立たされる。それを我慢して続けるだけの「うまみ」もない。
 辞表をポンと出してやめることもできた中川さんが、それをしなかったのは、「じゃあ、誰かやってみろよ」という立場を取らなかったからだと思う。辞めないことでサポーターからより大きな批判を受けたが、僕は逆にあのとき辞めなかったことで、中川さんはレッズの代表としての資質を強くしたと感じた。
 考えてみれば中川さんが代表に就任したときも、降格時とはレベルが違うが、やはり「うまみ」の何もない時期だった。レッズとは関係のないこととはいえ、前代表が刑事事件に絡んで辞任。チームは(93~94年当時よりは上だったが)最悪の状態。そんなときに、別の関連会社の会長に就任したばっかりの、前社長より年上の中川さんに白羽の矢が当たり、それを受けた。固辞しようと思えばできただろうに。

 退任したからといってベタほめする気はない。中川さんの在任3年8か月の間には、ミスもあった。原監督を替えようが替えまいが、結果としてレッズをJ2に落としてしまったことは最大のミスだ。しかし、あのとき辞めてしまえば、「レッズをJ2に落とした社長」としてだけ名前が残っただろう。J2に落ちたという汚点は歴史から拭えないが、続投のときの公約通り「1年で復帰して責任を果た」したことも「浦和レッズ10年史」(誰が書くんだ?)に記される。
 中川さんの最大の功績は?と聞かれれば、僕はこう答える。
 97年の就任時に一度火中の栗を拾ったにもかかわらず、99年には燃え盛る火の中からも手を抜かなかったことだ、と。
 苦しいときこそ辞めない、という前例を作ってくれた。これは今後も予想されるレッズの危機に際して、クラブのフロント、監督はもちろん、サポーターにも当てはまる。

 ところで当時を振り返る中川さんの口から「居直って」という言葉が聞かれる。これは推測だが、99年暮の「辞任要求署名」、これのおかげで、中川さんは続投の意志を固めたのではなかろうか。回り回って考えれば、あの署名活動がレッズを1年でJ1に復帰させた、と言えるかもしれない。ね、Oさん。

(2001年7月2日)

6月27日、代表退任の日。大原サッカー場で

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