さいたまと
ワールドカップ





COLUMN●コラム


#115
黙祷から考えた

 どうしたの?ミッドウイークに。
 10月13日のMDPの「STRIKE BACK」用に書いたのだけど、やっぱり埼スタの柿落としにふさわしくないのでやめた。文字通り「MDPはみ出し話」だ。


 9月15日、磐田戦のキックオフ直前。スタジアム全体で黙祷が行われた。これまで何回かあったものより長く感じた。ふだんせわしない生活をしているから、目をつぶるといろいろなことが頭に浮かぶ。
 「皇太后への追悼とか、大事故の犠牲者に哀悼とかはあったけど、テロの犠牲者の冥福を祈って試合前に黙祷するのはたぶん初めてだな」
 「いや、あった。レッズが降格した年、広島ビッグアーチで、確か」
 「違った。あれはユーゴ人選手がNATOのユーゴ空爆に抗議して、いろいろやったんだ。ペトロがユニフォームを脱いでイエローもらったっけ」
 「あのときJリーグから、試合に政治を持ち込むなと言われたよな。じゃあこれは政治じゃないのか」
 「テロって政治だよな」
 「そうだけど、犠牲者への黙祷だから」
 「NATOの空爆のときは一般人に犠牲は出なかったのか」
 「犠牲者の規模が違うんだろう」
 「いや、アメリカがやったかやられたかで違うんじゃないか」
 「そういう考え方してると、仕事なくすぞ」
 なにか多重人格者が1人で会話しているみたいだが、頭に浮かんだことを言葉にすると、これがほぼ正確な再現だ。


 自分は、テロの犠牲者を悼む気持ちは他人に劣らないと思っている。一瞬のうちに命を奪われたビルの人たち。ハイジャックされてから恐怖を味わった揚げ句殺された飛行機の乗客・乗員。瓦礫に埋もれ、助けを求めながら息絶えていった人たち。危険を承知で被災者の救助活動にあたり、殉職していった消防士や警察官たち。涙しないでは考えられない。
 罪のない人を殺すことを「神の意思」で片付けでしまう「聖戦」とは、僕にはとうてい理解できない。本当に自分たちがやったことを理解できているのか、知った上で「インシャラー」(すべて神のおぼしめし)と言っているのか。だと、すれば何と便利な言葉だろう。インシャラー。


 だけど、どうして報復爆撃なんだろう。彼らイスラム原理主義テロリストとの間に、共通のルールが存在しないとすれば、彼らは反省も恐れもしない。報復が報復を呼び、ますます仁義なき戦いが激化する。ニューヨークの犠牲者の無念を晴らすために、結果的に新たな悲しみと恨みを広げることになる。
 市民に被害が及ぶことを極力避ける、という言葉を聞くたびに、おいおいちょっと待ってくれ、と思うのは僕だけではないだろう。1万人の市民のうち、巻き添えで10人が亡くなったとすれば、「わずか」0.1%。確かに犠牲は「極力」少ないかもしれない。しかし亡くなった人の家族に「たった0.1%なんだからOKね」と言えるか?殺された人にとっては、ニューヨークのテロとどこが違う?理不尽な死には変わりがないはずだ。


 でも今、米英の爆撃のために亡くなった、アフガンの一般市民のために黙祷すべきだと言ったら、白い目で見られるだろう。元もと僕は、サッカーやレッズに直接関係のないことで観客に黙祷を強いるのはどうかと思っているから、そんな主張をする気はない。不思議なのは、NATOのユーゴ空爆では黙祷しない。世界のどこかで洪水で何人もの人が死んだときも黙祷しない。ほら、つい最近も台風11号で亡くなった人がいたじゃないか。その台風の影響で1週間ナビスコカップが延びたんだから、8月29日の代替日にはその方々の冥福を祈っても良かったんじゃないか?それで、どうして9月15日の黙祷なんだってこと。それこそ政治的じゃないか。


 このまま戦争が続いたら、来年のワールドカップなんか、絶好のテロの標的になるに決まっている。アメリカチームの出場も決まったことだしね。それを知ってか知らずか、日本の首相は「戦争断固支持」と相変わらず口だけは勇ましい。戦争に協力するのは、内政より単純だからやりやすいのかもしれないけど、その結果国民の平和な暮らしを脅かしてることを分かっているんだろうか。
 こう言うと「日本人は水と安全はタダで手に入ると思ってる」なんて決まり文句が聞こえてくる(日本じゃとっくにタダの水なんか手に入らなくなってきてるよ)。日本が侵略された訳でもないのに、わざわざ危険を引っ張ってくることはないっての。それも、ほかに解決方法がないなら別よ。ぶんなぐられて熱くなってる当事者を落ち着かせるのは第三者の役目でしょうが。それをいち早くたきつけるようなこと言って。こういうときに「軍事報復は最悪の手段です。我が国はこれ以上、犠牲が広がらないような解決に向けて協力を惜しみません」ぐらい言ってみな。絶対に憶病だとは思われないから。


 別に首相批判するつもりじゃなかった。そう。本当に言いたいことは、平和でないとサッカーも何も楽しめない、ということ。快楽をむさぼるという意味じゃないよ。人が人らしく生きるには、楽しむという行為が不可欠なんだ、ということ。その代表的なものがスポーツだし、するだけでなく見ても応援しても楽しいのがサッカーだ。しかし戦争が迫っているときはサッカーどころじゃなくなる。無理してやっても心から楽しめない。相手との戦い、なんて本物の戦争の前には空々しく思えてしまう。人間を人間らしくさせないもの。それが戦争じゃないか。


 「テロを許さない」という言葉には、犯人を許さないという意味と、テロの拡大を許さないという二つの意味があるはずだ。報復爆撃は、テロの犯人を許さないことしか考えていない。テロが拡大する懸念は後回しなのだろうか。

(2001年10月10日)