さいたまと
ワールドカップ





COLUMN●コラム


#119
約束

 やっぱり水曜にMDPがあるとつらい。ごめんなさい。


 10月21日、日曜日。レッズのサテライトの取材で川越にいた。試合は0−0の引き分けで終了のホイッスルが鳴った。余ったフィルムで観客席の写真を撮って、腰を上げたとき携帯が鳴った。着信表示はレッズ広報の須藤君だった。
 (サテの結果でも聞きたいのかな)
 「清尾さん、写真部の久保田さんのこと知ってます?」
 「え?どうしたの?」
 「亡くなったんですって」
 まさか!この間、話したばかりだ。交通事故か?
 「サッカーやってて倒れて、そのままですって」
 その後は仕事にならなかった。辻谷サテライト監督の話も、ナイスセーブした山岸の話も、いっぱい聞くべきことはあったのに、何もしないで帰ってしまった。
 夜7時ごろ、家にいたら携帯が鳴った。今度はレッズ運営部の佐藤さんからだった。
 (久保田さんのことを聞きたいのかな)
 「トム・ヤン・クンが亡くなったらしいよ」
 絶句した。だって、トムとは昨日万博で会って、水曜日には博多で写真をあげて…。
 「サッカーやってて倒れたらしいよ」
 うそだろ?1日に2人も知り合いが同じ状況で亡くなるなんて。
 だけど、事実だった。


 久保田さんは僕より7つ上の51歳。僕が埼玉新聞社に入ったときからずっと写真部だった。もちろん僕が入る前からもそうだったはず。20年以上、同じ職場という人はほかにいないはずだ。良い意味でも悪い意味でも職人だった。
 良い意味というのはもちろん写真の腕。新聞社の写真部というのはスポーツに限らず、いろんな場面で写真を撮ることが要求されるが、どんなに条件が過酷でも、なんとか使える写真を仕上げてくれた。サッカーでいうと、どんな凡戦でもそれなりの場面を切り取ってくれた。
 悪い意味というのは、部長という役職にいたが、あまり管理職としての仕事はしていなかったようだから。仕事の割り振りや他部署との交渉はしたが、若手の指導ということはあまり熱心でなかった。写真は教えるものじゃないと思っていたのか、自分でやれ、という感じだったようだ。
 僕は一緒の部になったことはないので、久保田さんが管理職としてどうだったかはあまり関係がなかった。15年前に僕が少年スポーツの取材をするようになってから、仕事上の付き合いが始まったのだが、その当時は素人同然だった僕は、あれこれ質問したものだが、冷たくされた覚えはない。
 MDPの仕事をするようになってからは、もっと会う場面が増えた。MDPのゲーム写真のうち半分以上は、写真部が撮ったもののうち新聞に使わなかったもの、つまりおこぼれを頂戴している。写真部には、MDPのことは考えずに仕事をしてもらっているが、新聞に使う数よりMDPに載る数の方が多いのだから、気を使ってもらった。
 「いい場面だけど、本紙(埼玉新聞)には使えなかったからマッチデーに使えば?」
 「あいつ(写真部員)の撮ったやつ、いい絵だからマッチデーに使ってやってくれ」
 ずいぶんとお世話になった。


 自身はサッカーに野球にスキーにと、スポーツ万能だったから、勝てないときのレッズを取材に行ったときは渋い顔だった。
 「だめだよ、あいつ。ボールもらってから周り見てるもん」
 「アップアップで、全然余裕がないね」
 カメラを通した久保田さんの試合評が参考になったこともずいぶんあった。
 しかしレッズの調子のいいときは素直に喜んでくれた。典型的な浦和のサッカーファンだったと思う。
 「清尾、レッズ優勝したらどうすんだよ。大変だな」
 冗談めかして言うその言葉の中には、特別なものを出すなら手伝ってやるぞ、という響きがあった。その機会はついに来なかったのだけど。
 僕たち昭和30年代生まれのフタになっていると言われる団塊の世代。重しが重いほど地上に出たときのパワーは強いものになる、という言い方は強がりかもしれない。しかし7歳年上、というのはライバルとしてメラメラ炎を燃やすには離れすぎだし、関係ないやというほど離れていない。手近な目標としてちょうどいい距離なのだ。
 久保田さんが僕の写真をベタほめする日が来たとは思えないが(ベタほめする人ではないから)、いい写真が撮れたとき、サポーターに見てもらうのとは別に、久保田さんに見てもらうことをひそかな楽しみにしていた。
 これから、会心のショットが撮れたとき「よっしゃあ」と喜んでから、寂しく感じることになるのだろう。


 URAWA BOYSのトムこと矢島篤史君は、先日までほとんど話したことがなかった。知らない人もいるだろうが、9月22日のアントラーズ戦で、国立競技場の聖火台に登って「PRIDE OF URAWA」というゲート旗を掲げたサポーターだ。
 一部の人からはヒンシュクものだったろうし、警備員があわてて降ろしに行ったが、僕は「OK、OK」だった。だってあまり実質的に迷惑にはならないし、そもそもあそこには人が立つようにできているのだから危なくもない。ならばサポーターの士気を高めるのは絶好のパフォーマンスだ。青空に「PRIDE OF URAWA」の文字が映えて、きれいだった。
 その写真を焼いて本人に渡したのが10月17日のアビスパ戦の試合前だった。空ばっかり大きくなってしまったのだが喜んでくれた。20日のガンバ戦にももちろん来ていて、僕の写真には、山田の同点ゴールに喜ぶサポーターの中にトムが写っていた。
 そう言えば今季開幕の名古屋戦で、瑞穂のゴール裏の後ろの壁に立って、サポーターの中にダイビングしたこともあった。
 大学4年生で、本格的に応援しだしてまだ4年目らしい。95年の大宮神話も、福田の得点王も、96年のオジェック、ウーベとの涙の別れも知らないのか。
 人生もこれからだが、サポーター活動もこれからだ。高校生、大学生が社会人になってどういうサポーターになっていくか、見守っていきたかった。いくつまで高いところに登りつづけるか、楽しみだった。


 人の死を闘いのモチベーションにしたくはない。彼らの分まで、というつもりもない。僕は僕のことで精いっぱいだ。ただ、久保田さんにもトムにも、何かを約束させられたような気がしてならない。生きている人との約束は守れなくても謝って許してもらうことができる。しかし亡くなった人との約束は「ごめんなさい」と言えないから反故にすることができない。その代わり果たすまで何年かかっても文句を言われないのだが。

(2001年10月30日)