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COLUMN●コラム


#217
死んだ気


 256MBのメモリ容量を512に増設するように、人間の能力がいきなり飛躍的にアップできるとしたらすごい。素晴らしいかどうかはわからないが、すごい。すごい、というのは、そんなことはまず無理だからだ。
 人間の能力は一朝一夕には伸びない。運動能力も体力も語学力も思考力も洞察力も文章力も‥、およそ能力と名がつくものは、やはり時間をかけて伸びていくものだと思う。もちろん、まっすぐな右肩上がりの線ではなく、時に急上昇したり、時に停滞したりという緩急もあるだろうが、その急上昇だって限度がある。いきなり生まれ変わったように向上することはちょっと考えにくい。
 ただ、一つ可能性が考えられる。潜在能力というやつだ。本来その人間が持っている能力だけれど、なかなか表に現れない。それが、ふとしたことで発揮されるようになれば、周りからは、一気に能力が伸びた、と見えるだろう。本当は包んであった風呂敷をぱっとめくっただけで、能力自体は元々あったものなのだが。
 この風呂敷をめくるきっかけは、いろいろだろう。特にそれまでいろいろ努力しても、持っているはずの潜在能力が発揮されてこなかった場合は、それは精神的な変化がきっかけになることが多いのではないか。サッカー選手が移籍の理由として「環境を変えたかった」と言うのはそういうことなのだろう。たとえばレッズからヴェルディに移籍した桜井直人などは、そのいい例かもしれない。レッズ戦で特に活躍するみたいで、それは悔しいが。


 去年と何も環境が変わった訳ではないが、風呂敷がめくれるかもしれない選手がいる。
 城定信次。
 何も環境が変わった訳ではない、と言うと本人に失礼か。この半年間、彼の環境の変化はJリーグ入りした96年以降、最大のものだっただろう。7年半在籍したレッズからアルビレックス新潟にレンタル移籍。新天地で頑張ろうと思っていた矢先に右ヒザ前十字じん帯断裂の重傷。来季はどうなるんだろうという不安の中、レッズと契約更新。今はリハビリしながら、一緒にオーストラリアキャンプに参加している。
 環境および心境はめまぐるしく揺れ動いたが、現状としてはレッズの一員という、去年のままだ。トップのスタメン候補としては、かなり難しいかもしれない、という状況も含めて。


 2002シーズンの城定は、開幕3試合に左のウイングバックという得意のポジションでスタメン出場。しかし、その後はナビスコの3試合にベンチ入りしただけだった。城定のプレーパフォーマンスについて、特にレッズで昨年あまり試合に出なかった理由について、僕がどうこう言える立場にはない。ただ、山田、土橋に続き、内舘と並んで古いチーム歴の選手が「放出」されるのはやはり寂しい。その意味では、城定が戻ってきたのは僕個人としてはうれしいところがあるのだ。
 しかし本人にとっては、それどころではないだろう。「放出の嵐」だったオフを考えれば、レッズが自分と契約更新したのは、シーズンをまたぐような重いケガを負ったためだろうという察しは容易につく。レッズのフロントとしては、8月に新潟へレンタル移籍させた時点で、来季の完全移籍を見込んでいたのが、シーズンにまたがるようなケガを負ってしまったから移籍させられなくなり、かといって戦力外にする訳にもいかないという、「道義的な」契約であったかもしれない。年俸は大幅ダウンしただろう。本人にしてみれば「なめんじゃない!」と移籍してレッズを見返してやりたいところかもしれないが、ヒザのケガ持ちではそうもいかない。今は不本意でもケガを治して再出発を期すしかない。それがレッズでなのか、他のチームでなのかはまだわからないが。


 「死んだ気になって出直す」。今季、この言葉がこれほど似合う選手はいない。レッズでの城定信次は一度死んだ。サッカー選手として、Jリーガーとしては健在だが、レッズの選手としての城定は本来はもういなかったはずなのだ。そして、もしかすると城定信次ほど、そういう気持ちの切り替えが必要な選手はいないかもしれない。
 いつだったか、どの試合だったかは忘れた。試合前のアップのときにスタンドに「城定、深呼吸」という旗が出されたことがあった。その言葉に感心したことだけは鮮明に覚えている。プロ選手に「深呼吸」でもないだろうが、それくらい城定は自分のミスやスタンドからの野次に過敏なところがある。サイドを突破して早めにクロス、あるいはシュートを放つ。調子の良いときは、それが得点につながる匂いがプンプンするが、消極的になるとそれがなくなる。そして守備にもそれが影響し、相手に抜かれて追いかけるシーンが多くなる。
 ナーバスにならずに、失敗を恐れず思い切っていけば得点に絡む場面がもっと増えるのではないか。そう思うのは決して僕だけではないはずだ。語弊を恐れずに言えば、城定はレッズでは失うものは何もない。駄目でもともと。そんな気持ちになってプレーをすることで実は結果がグンと良くなる可能性があると思う。
 ましてや、あの「野崎リハビリ道場」にいるのである。長い期間かけて、ただケガを治すだけでは飽き足らないトレーナーの野崎信行さんは、選手に必ずお土産をつけてチームに帰す。たとえば小野伸二が上半身の体の強さを身に付けたように。城定がどこのグレードアップを図っているかはまだ企業秘密にしておこう。


 フロントはもしかして、城定のケガを治してどこかに移籍させることを考えているかもしれない。流れからすれば、それもそれほど理不尽なことではない。しかし、せっかく(安かろうとは言え)年俸を払い、ここまで面倒を見た選手なのだから、ちょっと試してからでもいいのではないか。これまでナーバスという風呂敷に隠れていた能力が全部発揮された城定を見ずに、よそへやってしまうのはもったいなくないか。
 というか、僕はぜひ見たいのだが。


(2003年2月25日)