Weps うち明け話
#011
感動の記憶
 スポーツシーンで感動した場面は多い。しかしレッズのことを除いて、そのすべてを詳しく覚えているかというとそうでもない。スラスラと知識を披露する人には感心してしまう。その場面が自分の何かと結びついていると記憶が薄れることはない。

 有名人の逝去をネタにするのはあまり良くないと思っている。書くなら亡くなって世間が注目しているときでなく、存命中に書かないとズルいという気がするからだ。だから高田渡さんが亡くなったときも何も書かなかった。
 だけど元貴ノ花の二子山親方の訃報を聞いて、書かずにはいられないことがある。
 僕は相撲を国技館に見に行ったことはない。子どものころは大好きだった。友達とも相撲を取ったし、テレビは欠かさず見た。「巨人・大鵬・卵焼き」世代だから。貴ノ花は大鵬より好きだった。僕の中では石川県出身の輪島よりも少し上だった。最近はあまりテレビでも見ない。40代の日本人として普通に相撲と接してきた感じだった。記憶に残っている一番もいくつかあるが、そんなにマニアックに語るほどではない。
 だが昨日の夜、元貴ノ花が亡くなったと聞いて、急に自分の人生の節目の一幕を思い出した。それは昨日からテレビでも何度も流れている最初で最後の優勝のシーン。表彰式でお兄さんの先代・二子山が優勝旗を渡したのもよく覚えている。
 何でその日が自分の人生の節目かというと、昭和50年の春場所というのは、高校を卒業し春から京都で一人暮らしを始める直前の時期だったからだ。普通に言うと新生活の希望に燃えている時期だが、僕の場合は大学をみんな落ちて、浪人生としての生活が始まる昭和50年だったから、少なくともバラ色というやつではなかった。
 大学にみんな落ちたのはある意味当然だった。だって高校2年生の二学期からほとんど勉強しなくなったから。勉強が嫌いになった訳ではなく、他のことで忙しくなっただけだ。他のこととは、普通は大人になってからすること。成績は見る見る落ちていったが、その気になればすぐに学年でトップクラスに戻れると思っていた。1年のときはそうだったから。
 高校3年生になって、友人がみんな「更生」し、遊ぶ相手が少なくなっていったが、あまり気にせず「まあ秋ぐらいからやれば大学ぐらい入れるさ」と言っていた。だんだん自分の中では不安になってきたが、そのころヒットした映画「子連れ狼」やテレビ「木枯らし紋次郎」が大好きで「こんな生き方もいいな」と思うようになった(どんな生き方だ!)。
 詳しい成績は知らないけれど、受けた大学をみんな落ちた。合格したのは京都の予備校だけ。卒業式も終わり、友人の多くは大学に入る準備と、遊びで忙しい。僕も浪人生活の前の最後の息抜きに(それまでも息抜きばかりだったが)、自宅でのんびりしていた。昭和50年3月の春場所千秋楽とは、そういう時期だった。
 貴ノ花が体格差を克服して勝って来たのはよく知っていた。しかしそれまで優勝はできなかった。やっぱり最後の壁は破れなかった。しかし、ついに優勝した。最後はデカい北の湖に勝った(優勝決定戦だったことはニュースで思い出した)。
 ああ、努力しないで「自分はやればできるんだから、なんとなるさ」なんて甘いよなあ。そんな当たり前のことを自分に言い聞かせた日だったのだ。本当に単純な感動だが、自分でも何かきっかけを探していたのだろう。
 それから劇的に自分が変わった訳じゃない。いろんな誘惑に(僕は誘惑に弱い。「誘惑」という字自体に魅力を感じてしまうほどだ)負けたし、深みにも入ったし、溺れもしたが、最後は何とか大学に合格した。最後は、といってもたった1年だが。
 元貴ノ花逝去の報を聞いて、すぐにあのころの感覚が浮かび上がってくるのだから、やはり人生の節目に影響を与えてくれた人だったのは間違いない。
 ありがとうございました。安らかに。
(2005年5月31日)
〈EXTRA〉
 ちなみに、僕の大学受験に影響を与えてくれたスポーツ選手がもう一人いる。ボクシングの輪島功一さんだ。僕が中学3年のときに28歳で世界チャンピオンになって話題になったが、僕の高校時代はずっと防衛に成功していて、たしか高3の夏ごろに負けた。引退だろうと思っていたが、僕の最初の受験の真っ最中、昭和50年の1月にリターンマッチでタイトルを取り返したのだった。
 あのときも激しく感動した。さすがに1月ともなると受験勉強の真似事をしていたが、テレビはちゃんと見ていた。「あきらめない」ということを輪島さんに教えてもらった気がした。と同時に「あと1年早く気づかせてくれたらなあ」とぼやいた事も覚えている。
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