Weps うち明け話 文:清尾 淳

#904

MDP私史(2) とりあえず

 1992年7月10日、三菱サッカー部のマネージャー、佐藤仁司さんに「相談したいことがある」と言われて、僕と営業担当者と常務取締役の3人で出かけた。
 9月から始まるヤマザキナビスコカップのホームゲームで、ファン向けのプログラムを埼玉新聞社に作って欲しい、という下話はされていた。
 僕が三菱からプログラム作りを打診されて「そういうのは得意です」と答えたという説があるが、それはこの段階の話だ。埼玉新聞社は、大きなイベントなどがあった場合、そのプログラムをタブロイド判の新聞で製作して参加者全員に配る、という仕事をよくやっていた。経費は主催が持つか、広告を取って捻出する。もちろん利益を出す業務だ。イメージしてもらうなら、鹿島がホームゲームで配布しているプログラムがそれに近い。

 同行した常務が「広告もうちで営業しますから、参加者に全員配るようにしたらどうですか」と2人に言ったとき、即座に否定された。
 曰く、新聞形式のものは尻の下に敷かれて捨てられるだけだ。後々まで残るような形にしたい。
 曰く、無料のものは大事にされない。100円でもいいから有料にしたい。
 曰く、来場者が、お金を出しても欲しい、というものを作りたい。
 「海外では、こんなものが出ています」と見せられたのが、イングランドの各クラブで発行しているプログラムだ。

 さあ、ハードルが上がった。
 だが尻込みはしなかった。もともと僕は、この話を絶対に受けようと思っていたのだ。
 2年半、誘致の活動に関わってきて、新しくできるJリーグはプロ野球並みのメジャーなプロスポーツになるだろうという感触があった。しかも、ホームタウン、地元に根ざしたクラブ運営をする、というよりしなければならないのだ。試合の記事だけでも埼玉新聞の出番なのに、向こう(三菱)から仕事を依頼してきたのだから、これはガッチリ食い込まなくてはならない。
 小冊子形式のものは作ったことがなかったが、断る選択肢など僕にはなかった。日程も初戦が9月5日、次が17日、その次が27日、最後は10月7日と、あまりタイトではない。

「ちょっと相談させてください」と頼むと2人が席を外した。
常務「どうするよ」
清尾「受けましょう」
常務「でも、どこがやる?」
清尾「とりあえず今年は、運動部と写真部に協力してもらって、僕のところでやります」
 こういうとき僕は、やれるかどうかを考えない。やるという前提で動き、やり方はあとで考える。それで上司とよく対立したし、部下にも迷惑をかけたものだ。でも、この常務は僕の考えに近い人だった。
常務「大丈夫か?」
清尾「何とかします。いま返事しないと、よその編集会社とか企画会社に持って行かれちゃいますよ。とりあえず受けましょう」
常務「そうか」
 一緒に行った営業担当者もうなずいていた。

 もしも、この会話を藤口さんと佐藤さんが聞いていたらどうだったろう。「あそこに頼んで大丈夫か?」と逆に二の足を踏んでいたのではなかろうか。

 あの「とりあえず」が25年続くとは思ってもいなかった。でも、とりあえず僕の勘は外れてはいなかったらしい。

(2016年7月28日)

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