いつでも話せるさ、と思っていて2年間が過ぎてしまった。今回は最後の挨拶もできなかった。
もう一度、ヨーロッパで挑戦したい気持ちがあって、クラブもそれを認めているのは知っていたから、いつ浦和からいなくなっても不思議はなかったのに、いつでも話せるさ、などと思っていた自分が甘かった。
だけど、調子の良いときは多くの記者に囲まれ、ケガをしているときはこちらが遠慮してしまうから、結局じっくり取材するチャンスがなかったのだ。
これから、まったくのミーハーファンみたいなことを書く。
あれは2005年、彼がケガの治療のため、日本へ、いや浦和へ帰ってきているときのことだ。僕が夕方、大原サッカー場に行ったとき、彼が玄関から出てきた。大勢の記者に囲まれていろいろ聞かれながら車の方へ歩いていった。
ああ、そうか。日本に戻ってきてるんだっけ。そう思った僕がさっさと建物の中に入らなかったのは、久しぶりに実物の彼をもう少し見ていたい気がしたからだ。さりとて、取材する訳でもないのに、記者の輪の中に入り込むのは気が引ける。少し離れた大原の玄関前で、記者の人だかりの隙間から、彼を見ているだけだった。そのうちに話が終わり、彼は車に乗り込もうとした。そのときだ。それまで一言も声をかけていない僕に向けて、彼はこう言ったのだ。
「じゃ、清尾さん。また」
衝撃だった。オランダやアテネはもちろん、日本代表の取材にも行ったことのない僕だ。01年の7月21日以降、彼を仕事で見たのは03年のさいたまシティカップと福田正博引退試合ぐらいだった。ふだんから顔を合わせているのならともかく、直接取材することなどない僕に対して、わざわざ彼の方から挨拶してくれるなど、思ってもいなかった。
あのときの彼の笑顔と声は一生忘れないだろう。形にならない僕の宝物だ。ミーハーと笑わば笑え。
彼にとってただの挨拶だった「また」は2006年1月、現実のものとなった。だが残念ながら冒頭に書いたようないきさつで、深い取材をする機会がなかった。それは僕の弱さだから自分を責めるしかない。
だが、せめて旅立つ前にもう一度会いたかった。今度は僕が言う番だったから。
「じゃ、伸二。また」と。 |