Weps うち明け話
#154
控え選手の存在意義
 書こう、書こうと思っているうちに開幕が明日になってしまった。あ、違うか。北京五輪の開会式は8月8日だった。6日は女子サッカーの日本初戦。

 何度も言うようだけど、本当に昔はオリンピックが好きだった。情報の絶対量は現在の方がはるかに多いと思うが、初めてテレビで見たスポーツの国際大会が1964年の東京オリンピックだったから、刷り込みのようなものだったのだろう。かなり成長するまで熱心なオリンピックファンだったと思う。東京五輪音頭は一番だけなら今でも歌える。
 ただし、いつの大会で何があったか、だんだんゴチャゴチャになってきている。東京五輪は、女子バレーボールの東洋の魔女、マラソンの円谷幸吉、体操の山下治広、重量挙げの三宅義信。68年のメキシコ五輪ではサッカーの銅メダル、体操の加藤沢男、ぐらいしか記憶にない。そして72年のミュンヘン五輪と言えば、これはもう男子バレーボールである。

 松平康隆監督率いる日本男子バレーボールチームは、見事金メダルを獲ったのだが、ここに至る道のりがすごい。すごいというのは、松平監督と選手たちが歩んできた道そのものもそうだが、すごいのはそれがテレビ番組になっていたことである。僕はその年、高校1年だったが、たぶんその春からオリンピック本番直前まで、毎週末のゴールデンタイムに「ミュンヘンへの道」という30分番組があった。アニメと実写を交ぜ合わせて、チームがどういう練習をしているのか、各選手がどういう個性を持っているのか、日本チームはどういう技が得意なのか、などをこと細かに紹介していくのだ。1回で終わる2時間モノなどではない。
 僕のいた石川県ではキー局がどこかなど関係ないから覚えていないが、よくあんな番組を作ったものだと思う。いま思えばドキュメンタリー娯楽番組で内容は完全な広報モノ。悪く言えば洗脳番組と言ってもよく、あれを毎週見れば、日本男子バレーボールチームを応援したくなるし、優勝するものだと思い込んでしまうだろう。僕らは友人と「これでもし金メダルが獲れなかったらどうするんだろ?」と話していた。もちろん、優勝できなければ面白いのに、などという嫌味なことは決して思わず、「頑張れニッポン!」とテレビっ子としての正しい反応を示していたのだが。

 秋になり本大会が始まり、日本は順調にリーグ戦を勝ち上がり決勝トーナメントに進んだ。日本とドイツの時差は7時間ぐらい?現地で夜の試合だとすると、こっちは深夜の2時とか3時。当時、テレビの衛星映像はあったが、生放送はなく、第一その頃テレビは夜中の12時1時で放送を終わっていたはずだ。だから試合は翌日の録画放送を見る。録画でも、何の情報もなく見れば、感覚的には生と変わらなかった。
 しかし準決勝は、ラジオの生中継があった。ずっと放送されていたのに、僕がその試合だけ聞いたのか、決勝トーナメントだから生中継があったのか、わからない。とにかく準決勝はラジオ中継を母親と2人で生で聞いた。深夜に母親と息子が一緒にラジオを聞いているなんて光景は通常ではあまりないだろうな。相手はブルガリアだった。詳しい経過は覚えていない。とにかく2セット先取された。そこから3セット連取で逆転勝ちするのだ。僕と母親は夜中に手を叩いて大騒ぎしていた。
 日本が取った3セットも楽勝だったわけではない。僕はハラハラ、ドキドキしながら放送に聞き入っていたが、選手たちの緊張感はそれどころではなかっただろう。
 1セットでも落とせば、その時点で敗退なのだ。前評判から言えば、負けたら日本に帰れない、くらいに思っていたはずだ。残りの3セットは、ずっと徳俵に足がかかったまま相撲を取るようなものだった。何度も選手たちは「もう駄目だ」と思ったことだろう。あの試合で日本を救ったのは、森田、横田、嶋岡といった当時のスター選手ではなく、南将之、中村祐造といった、ベテラン勢だった。それまであまり注目されておらず、僕もそのときまでよく知らなかった。「ミュンヘンへの道」でも、主役として登場したことはなかったのではないか。

 ラジオでは様子がよくわからなかったが、翌日のテレビを見ると、日本が背水の陣に追い込まれた第3セットから登場し、みんなを盛り立てている。僕が覚えているのは、ユニフォームの袖をまくり上げた中村が、笑顔でコートを跳ね回っている姿。悲壮感はなく、大丈夫、大丈夫、落ち着いてやれば勝てる、そう若い選手に語りかけているかのようだった。南は長身だが地味なイメージ。その彼のたぶん精いっぱいの盛り上げ方だったのか、黙々と走り回っていた。
 6人の先発メンバーは、役割はそれぞれ違うが、総合的に力を持つ選手たち。控えの選手は、総合的にはやや落ちるものの何か突出した長所を持っていたと思う。中村や南の存在意義はそれとも違うものがあった。チームが順調であればほとんど目立たなかったかもしれない。非常時にこそ発揮された彼らならではの長所。もちろんプレーでも若い選手に遜色はなかったと思うが、それよりも、若い仲間たちは、中村が大丈夫だと言えば自信がわき、中村が笑顔でいればあせりはなくなる。そういうものだったのではないか。一朝一夕には身につかない、経験と信頼というかけがえのない武器。それらを備えた選手をメンバーに入れておいた松平監督の慧眼に、今さらながら感服した。

 今さらながらって、いつ思ったのよ、そんなこと?
 うーんとね…、7月8日。女子サッカーの日本代表メンバーが発表された日。
(2008年8月5日)
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