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Weps うち明け話
#182
浦和レッズ記念日
 浦和レッズの株主総会、というと違和感があるな。株式会社三菱自動車フットボールクラブの株主総会が今日4月24日、行われた。

 19年前の4月21日、埼玉県庁の横にある埼玉県県民健康センターの会議室で、あるイベントが行われた。
「浦和まちづくりフォーラム〜サッカーを通して未来都市づくりを考える」
 当時JOCの専務理事をされていた岡野俊一郎さんの「サッカーの未来像を語る」と題した基調講演。続いて「浦和・埼玉のサッカー、今と明日」というタイトルのパネルディスカッションという二本立てだった。パネルディスカッションのパネラーは、落合弘(サッカー日本代表コーチ)、塩野潔(埼玉県サッカー協会医事委員)、佐々木一樹(日本サッカーリーグ事務局長)、松本暁司(浦和市サッカー連盟理事長)、山口斉(浦和青年会議所理事長)、武正公一(まちづくりコーディネーター)といった面々(肩書きはすべて当時)だった。
 主催は「浦和プロサッカー球団を作ろう会」。これが同会の対外的な活動の第一歩、いわば旗揚げ式だった。イベントへの参加者は50人程度だったが、内容を全部字にして後日、埼玉新聞に連載し、そのコピーを活動の資料としてメンバーが持ち歩いていたのだ。
 今から思えば「球団」という文字が、ヘンに目立つが、この「作ろう会」がなければ、今の浦和レッドダイヤモンズはなかったと思う。

 極限すれば、三菱自動車サッカー部が浦和をホームタウンにしてプロ化の道を進む、ということだけなら、「作ろう会」がなかった方がスムーズだったかもしれない。なぜなら「作ろう会」はプロクラブ誘致の第一候補として、本田技研サッカー部を対象にしていたからだ。三菱サッカー部は、このころプロ化を内部で決定していたが、ホームタウンをどこにするか絞りきれていなかった。浦和や大宮も候補地の一つだったが、地元で「ホンダ誘致」の動きがあり、ホンダのサッカー部関係者もその線で動いていたから、横からしゃしゃり出ていくのがはばかられたのだろう。90年の10月に、ホンダがプロ化を断念し、浦和側から三菱サッカー部にホームタウンを浦和にする意思はないかという折衝を始めて、その後はとんとん拍子に「三菱浦和」が誕生していったのだった。
 もし浦和に独自のプロクラブ誘致活動が起こっていなかったら、他の関東エリアに有力なホームタウン候補地がなかった三菱は早くから森孝慈さんが浦和に来て、市長始め関係者をくどいていったに違いない。それが「作ろう会」がなかった方が、三菱のプロ化がスムーズだったかもしれない、と述べた理由だ。

 だが、その結果生まれたプロサッカークラブが、いま僕らの目の前にある、浦和レッドダイヤモンズになっていたか。それはタイムトンネルで19年前に行って、歴史を変えてみないとわからない。
 僕の推測だが、行政やサッカー関係者主導ではなく、すなわちおカミ主導ではなく、いろんな関係団体につながりを持った有志の集まりである「作ろう会」が主導で誘致を進め、さらには三菱との最初の接点にもなったことが、そのあとのクラブの在り方、方向性も作っていったように思えてならない。レッドダイヤモンズ後援会の結成もその一つだ。
 森さんや藤口さん、佐藤仁司さんが、浦和をないがしろにしてクラブ作りを進めていったとは思えないが、浦和に土地勘のない人たちだから、限界はある。良い悪いではなく、今の浦和レッズとは違うサッカークラブができていただろう、という推測は大きく外れていないような気がする。
 そういう意味で、1990年4月21日というのは、浦和レッズにとって、その性格を規定するきっかけになった記念日と言えなくもないだろう。「レッズ記念日」ではなく「浦和レッズ記念日」だ。

 そして19年後の今日、「作ろう会」の中心メンバーだった新田博利さんと、ホンダを断念した「作ろう会」が三菱に連絡を取る窓口になってくれた藤口光紀さんが、浦和レッズの取締役を退任した。
(2009年4月24日)
〈EXTRA〉
 NHKさいたま局でさっき話したけど、3分間では話しし足りなかったので、コラムにした。
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