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Weps うち明け話
#276
14年前のこととは
 指宿キャンプから帰ってきて疲れが出たせいか、月曜に更新しようと思っていたものが今日になってしまった、と言い訳。
 2月13日(日)のサガン鳥栖とのプレシーズンマッチ(PSM)に1−2で敗れ、これでJ2勢とのPSMは昨年春の徳島ヴォルティス、7月のザスパ草津に続いて3連敗だ。ちなみに昨年の徳島は開幕からスタートダッシュに成功。草津もワールドカップによる中断前は2勝4分け10敗という成績だったのが、レッズとのPSMに勝ってからリーグ再開後の5試合は4勝1分けと巻き返しに成功している。またPSMではなかったが、09年の天皇杯2回戦でレッズに勝った松本山雅FCは、その後JFL入りを決めた。
 何だか最近のレッズは、下のカテゴリーのクラブが躍進するきっかけになっている印象が強い。もしや、鳥栖や栃木はそれを期待してレッズにPSMを申し入れてきたのでは?と勘繰りたくなってしまった。まあ、とりあえずは鳥栖の開幕数試合に注目だ。

 サガン鳥栖とは10年以上も試合をしていなかったのだが、そんな気がしなかったのは、僕が九州に行った際、J2の試合や天皇杯を見に行ったり、Jユースカップの試合でベストアメニティースタジアムに取材に行ったりしているからだろう。
 だが、それとは別に鳥栖との試合は印象に残っているものが多い。
 最大のものはもちろん、2000年11月19日の駒場スタジアム、J1復帰を決めた試合だ。またその年の3月30日、J2リーグの第4節では鳥栖スタジアムで7−0の大勝をした。一方、7月9日には同スタジアムで0−2の完敗を喫し、ゴール裏から滝のようにペットボトルが投げ込まれるという苦い思い出もある。
 だが鳥栖のクラブと古いサポーターにとっては、そのJ2時代よりも14年前のことが記憶に深く刻まれているのかもしれない。先日の試合前、レッズのメンバー紹介に先立って、やや異例のアナウンスがあった。それはレッズサポーターが14年前に示した、同じ日本のサッカーを愛するものとしての友情を忘れていないという表明だった。14年前といえば、このコラムも始まっていない時代。何のことかわからない人も多いだろう。この機会に記憶と当時のMDPを頼りに記しておこう。

 1997年は、リーグ戦の前にナビスコ杯の予選リーグ6試合が一気に行われた。第1節は3月8日。浦和レッズは鳥栖スタジアムでサガン鳥栖との開幕戦を迎えた。
 サガン鳥栖は、当時JFL所属。近い将来のJリーグ入りを目指す準会員として、このナビスコ杯に参加するはずだった。しかし実際の状況はだいぶ違っていた。

 94年、前身のPJMフューチャーズが浜松市から鳥栖市に本拠地を移し、鳥栖フューチャーズと改称。Jリーグ準会員として承認されJリーグ入りを目指した。JFLでの成績は94年から96年まで3年連続4位。健闘はしたがJリーグ昇格は果たせなかった。そして96年、メーンスポンサーが撤退したため、クラブは危機に陥った。地元の関係者やファン、サポーターは存続を求める署名、募金活動を全国的に展開したが、事態は好転せず、97年の1月31日、運営会社が鳥栖フューチャーズの解散を決定した。その際、Jリーグ準会員の資格は喪失したが、シーズン開幕が近いこともあり、チームを引き受けるクラブがあればこの年のナビスコ杯には出場できるし、JFLにも残れるという「超法規的措置」が取られた。
 2月4日に、「サガン鳥栖FC」が発足。新たなクラブとして活動を開始した。しかし鳥栖フューチャーズ時代の用具などは、前クラブが清算管理下にあるため使用できず、各方面からの寄付などで練習する日々が続いた。練習を見学した鳥栖サポーターから「午前中はレッズの練習着、午後は京都サンガの練習着だった」という話も聞いた。
 新クラブ「サガン鳥栖FC」は会社法人ではなく、佐賀県サッカー協会など6団体で運営する任意団体。しかも大口スポンサーがあるわけでもなく、スタッフも専従者が2人という状態だったが、その活動を支えたのは地元の熱意だった。鳥栖フューチャーズ最後のシーズンとなった96年、2万5千人収容の鳥栖スタジアムが完成。6月16日に行われた本田技研とのオープニングゲームには2万人を越える入場者が訪れ、駅からスタジアムまでの道が人で埋まったと言う。ちなみに鳥栖市の人口は当時約5万6千人だった。新しい家ができたこともあり、地元のサッカー熱は高まっていき、サッカーがまちの核になっていった。
 鳥栖フューチャーズからサガン鳥栖への移行は、サポーターの意識も含め必ずしもスムーズに進んだわけではなかったが、発足間もないサガン鳥栖がなんとか存続していけたのには、3年間でそういう土壌ができてきたという背景があった。

 ところでレッズサポーターはどう関わるのか。
 鳥栖フューチャーズ解散、の報を受けたレッズサポーター有志が2月の上旬から浦和駅前で街頭募金を始めた。フューチャーズ存続署名のころから協力はしてきたが、新しいクラブが発足し、日々の運営費用にも事欠いているという話を聞いてのことだ。数日間で、かなりの額になった。そのころレッドダイヤモンズ後援会が急きょ、開幕の鳥栖戦でアウェイ応援ツアーを行うことを決めた。
 何で、そんな気になったのか、僕は2月21日〜22日、鳥栖へ飛んだ。おそらくサポーターや後援会の熱意に背中を押されたのだろう。鳥栖問題の経緯を詳しく知り、自分たちに何ができるのか、何をやれば一番良いのか、を知りたかった。いま思っても中身の濃い2日間だった。そこで取材したことは、MDP97号(97年3月25日)と98号(3月29日)に分けて掲載した。
 鳥栖での取材の最後に、現地の関係者と相談した。レッズサポーターが集めた募金の使い道についてだ。もちろん全額寄付してもよいが、それ以外に効果的な用途はないか、考えた末に思いついた。小中学生のチケットを買って地元の子どもたちを開幕戦に招待するというのはどうか。
 鳥栖のクラブとして招待券を配るということはしたくないだろうし、そんな財政的余裕はない。しかしレッズサポーターがチケットを買って、地元の子どもたちをレッズ戦に招待する、というのなら大義名分は立つし、まずはJリーグの雰囲気をぜひ生で味わってもらうことが大事だろう、ということになった。そこで電話でレッズサポーターの了解を取り付け、告知や試合当日の仕切りを地元の支援団体に依頼して帰ってきた。
 3月8日、後援会のツアー参加者200人を含め鳥栖スタジアムを訪れたレッズサポーターは700人ほどだったろうか。試合前に相手と交流するのはあまり得意でないレッズサポーターだが、鳥栖サポーターの代表数人がお礼にスタンドまでやってきたときは、素直に拍手で迎えた。「でも試合は別だぞ!」という声も飛んだが、結局、試合は0−0だった。

 14年前のMDP98号の巻末コラムで僕は「エンストした車を押しがけするのを手伝ったようなもの。これ以上の支援はできないし、あとはみなさんが頑張ってください」と書いた。
 サガン鳥栖は、99年からJ2に昇格したし、その後に迎えた経営危機も運営会社の移行によって乗り切ってきた。それに対してレッズもレッズサポーターも手助けはしていない。にも関わらず、この14年前のことを鳥栖の人たちは忘れていないのか。それをわざわざ場内アナウンスで表明するのか。2月13日はちょっと感慨深い数秒だった。こんな機会でもないと、このコラムに残すことはなかっただろう。
(2011年2月18日)
〈EXTRA〉
 2月13日、鳥栖駅に着いたのはちょうどスタジアムが開門するころで、駅の陸橋から見る鳥栖側入口には人が渦を巻いていて驚いた。そして14年前を思い出した。そう言えば、この日の入場者は7,575人。14年前は7,021人で、ほぼ同じだったなあ。

写真1 写真2
駅の陸橋から見た開門時の鳥栖スタジアム(2月13日) 14年前、同じ場所でこういう受付があった(97年3月8日)
 
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