Weps うち明け話 文:清尾 淳

#972

22年ぶりの勝利、18年越しのリベンジ

 一つの大きなインパクトによるものと、小さなエピソードが積み重なったもの。

 どちらの方が印象深いか、というのはもちろん一概には言えないが、今回は後者の話だ。


 札幌市の厚別運動公園陸上競技場。このスタジアムで浦和レッズが公式戦を行ったのは11月10日(土)のJリーグ第32節が通算で3回目だった。


 最初は1996年。東芝からプロになったばかりのコンサドーレ札幌(当時)はまだ旧JFLだった。

 1ステージ制で行われたシーズンで、Jリーグ第21節。浦和レッズ対アビスパ福岡の試合が厚別で行われた。

 そのころ、Jリーグはホームゲームの何試合かを、まだJクラブが存在していない地域で行うことを奨励していた。Jリーグのタネを日本全国に播くためだ。地元のサッカー協会と協力してJリーグのリーグ戦を行えば、対戦チームのファン・サポーター以外に地元の人が必ず見に来るだろう。それが将来、その地域にJクラブが誕生する土壌を作ることになる。もちろん、主催チームにとっても新たなファン・サポーターを開拓する一助になるし、グッズ販売の良い市場ともなる。


 このころ、埼玉スタジアムはまだできておらず、レッズもホームスタジアムの駒場(大宮)が改修や芝の養生、あるいは他の大会で使用できない時期に、何試合かを地方で行った。94年にはジェフユナイテッド市原(当時)との試合を博多で、ジュビロ磐田との試合を神戸で、マリノスとの試合を富山で。95年には磐田との試合を新潟で行っている。そして、この96年の福岡戦を札幌で行った。ホームゲームだから、全部MDPも発行したわけで、けっこう大変だったのだが、それは別の機会に書こう。


 さっぽろぉ?

 96年のいつだったか、福岡戦の開催地を耳にしたとき、思わずオウム返しに聞き直したものだが、決まったものは仕方がないし、成功させなければならない。

 当時、運営委員を務めていたレッドダイヤモンズ後援会(現・浦和レッズ後援会)で応援ツアーを主催する準備もし、同時に知り合いのサポーターとも話し合って、試合の後、札幌市内で大勢で(30人以上になった)懇親会を行う段取りもつけた。また、札幌に在住していたレッズサポーターにも、その懇親会に参加してもらうよう連絡した。

 その上、下見と称して7月(だったと思う)に一人で札幌を訪れた。サポーターに頼まれてスタンドの様子を写真に撮ってきたし、後援会ツアーの懇親会とサポーターの懇親会の会場とも折衝してきた。酒も飲んだが下見もちゃんとしたのだ。


 1996年9月28日(土)。

 あの日の札幌は快晴だった。

「あ、ここ札幌なんだよな」

 アウェイに行って一泊した翌朝、ベッドで「ここ、どこだっけ?」とわからなくなってしまうことはよくあっても、試合中に自分が今どこにいるのか忘れることは滅多にない。メーンから見て左側に赤のデカ旗が広がるのを見て、一瞬ホームかと思ってしまい、その赤が美しく映える空の青さがふだんとは違っていたので「北海道」を意識したのだった。当時の厚別のゴール裏は芝生席で角度もなかったが、ピッチにいた僕の位置からはしっかり見えた。


 試合は岡野雅行が開始1分に先制する、楽勝ムードで始まった。3分に追いつかれたのだが、危機感はあまりなかった。レッズはそのころ首位争いをしており、2連勝中。前節は柏レイソルに7-0と大勝していることもあり、残留争いに苦しんでいた福岡に勝てないはずがないと思っていた。

 ところが延長を含めて残り117分、どちらにも点は入らずPK戦に。レッズが何とか勝った。このころはPK勝ちでも勝点3がもらえるレギュレーションだった。

 サポーターは撤収の作業をしながら、予約した店に開始時間の変更を連絡するので大忙しだった。僕も。

 駒場、大宮、国立、埼スタ以外のスタジアムをホームゲームで使用したのは、この札幌が最後となっている。ちなみに地方ホームの勝敗は4勝1敗だ。


 2度目は2000年7月29日(土)。

 J2リーグで首位を争う札幌のホームゲーム第25節で、これがシーズン3度目の対戦だった。


 この年、レッズは「ぶっちぎりのJ2優勝でJ1復帰を」という意識で闘ってきた。そう明文化したものがあるわけではなかったが、前年の降格は「何かの間違い」であり、本来はJ1で戦うにふさわしいんだ、という気持ちがあった。それを証明するかのように、レッズは開幕から8連勝。モンテディオ山形に1敗した後、また連勝を続けた。

 しかし札幌との初対戦となった第17節でシーズン2敗目を喫した。そこから調子を落としたレッズは、その後逆転を許し、7月16日(日)に室蘭で2度目の札幌戦を迎えた。本来4月に行われる予定だった札幌ホームの第6節が、有珠山の噴火で延期されたものだった。当時の勝点差は7、自力で逆転するには勝たなければいけない試合だったが引き分けてしまった。


 そして間に1試合を挟み、また札幌とのアウェイ戦を迎えた。勝点差は変わらず7。他力はあまり期待できないリーグだったから、この第25節を含めた札幌との残り2試合で勝つことは逆転優勝に向けて必須の課題だった。

 試合は前半、レッズのクビツァが先制。しかし後半途中に追いつかれ、絶対に勝点3が欲しいレッズの焦りを突いて札幌が逆転した。

 試合後、レッズサポーターは深刻な話し合いを行い、「ぶっちぎりのJ2優勝」という意識を「2位以上で絶対にJ1復帰」へと切り替えた。「J2では勝って当たり前」という驕りが知らず知らずのうちに大きくなっていたのだろう。そう信じたかった、と言う方が当たっていたかもしれない。

 自分たちがJ2リーグの一員であること、札幌より成績が下であること、優勝してJ1復帰という目標は遠のいたこと…。それらを認識するのは耐えがたい。しかし大事なことは優勝でなく昇格。自分たちの足もとをしっかり見つめて残りのシーズンを闘おうというリーダーの呼びかけは悔しさと共に居合わせたサポーター一人ひとりの胸に落ちていったはずだ。


 僕はレッズが1年でJ1に復帰した背景の一つには、この日があったと思っている。

 ここから劇的に成績が改善されたわけではなく、レッズは結果として3位の大分トリニータに追い上げられ最終節でようやく2位を確保したのだったが、この札幌戦の後の意識改革がなければ、どうなっていたかわからない。


 かといって札幌に感謝する気持ちなどはさらさらなく、僕もこの日は試合後のスタジアムで「絶対、札幌に勝ってやる」と思っていた。それもこの厚別で、と4年前に来たときとはだいぶ様変わりしたスタンドなどを見つめていたものだった。


 今年、Jリーグの日程で札幌との第32節が「会場未定」となっており、訝しく思っていたが、どうやら厚別らしいという噂を聞き、「11月の北海道で屋外?」と憤慨したものだった。その憤りは最後まで解消されなかったが、心の隅っこで「厚別でリベンジする機会はもうないと思っていたが…」という複雑な思いもあった。

 そして昨年の7月29日、5シーズン半レッズの指揮を執ったミシャ監督に引導を渡したのも札幌なら、そのミシャを今季の監督として招聘し、クラブ史上最高の成績を挙げているのも札幌。ACL出場権を巡る順位争いで、レッズの上にいるという状況も2000年のあの頃と同じだ。


 試合の後半33分、橋岡に代わって森脇、という交代ボードが出た。右ウイングバックの定位置は、ミシャの目の前。森脇はやりくいだろうな、「モリ!」と叫ばれたら、そっちを向いてしまうんじゃないか、と変な考えが浮かんできた。森脇だけではない。ピッチには「ミシャの子どもたち」と言われそうな選手が何人も白いユニフォームを着て戦っている。


 96年の試合、00年の試合のことも頭にあるし、試合の終盤は札幌の反撃をレッズが必死ではね返すという展開だし、もう何が何やらわからなくなっていたのが正直なところだった。だが一つだけ「22年ぶりの勝点3、18年越しの勝利」とコラムの見出しが頭に浮かんでは消え、これを書かせてくれ!と願っていたことはよく覚えている。

 見出しは結局こうなったが。

写真1

※写真1 1996年、厚別のスタンドは一部が芝生席だった

写真2

※写真2 ゴール裏に広がったデカ旗。ここはホーム(1996年)

写真3

※写真3 青空が「北海道」を実感させてくれた(1996年)

写真4

※写真4 2000年の厚別は曇りだったが、晴れていても青空を楽しむ余裕はなかっただろう

(2018年11月14日)

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