コラム

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「プロと“言い訳”」
清尾 淳
 


 「プロ」ってなんだろうか。

 MDP140号に埼玉縣信用金庫さんのポスターの写真をプレゼントするコーナーを載せた。あの「前へ」というやつだ。その写真を撮るときに、実は失敗した。

 あのポスターは大小2種類あって、その大きさをわかってもらうのに、ポスター小とポスター大を壁に張った間に、福田正博本人に立ってもらって写真を撮った。大原サッカー場の建物の中で。なにせポスター大は、普通の家なら張る場所がないだろうと思えるくらい大きいから、それを実物(福田正博)とくらべて実感してもらおうと思って、練習の後にお願いしたのだ。

 室内でポスターを撮るのは難しい(少なくとも私には)。室内だと暗いからストロボを当てなければならない。ポスターの紙はツルツルしているから、ストロボをモロに当てると反射して光ってしまう。だから光を当てる角度や光の強さなどが微妙になってくる。慣れたプロカメラマンなら、それなりの機材も持っているし、もし機材がなくてもどうすればいいか知っているので失敗がない。

 ところが私は室内でポスターを撮影するための機材を持っていないし、慣れてもいない。だからストロボの角度や強さ、シャッタースピードを変えて、いろんな撮り方をしなくてはいけないのだけど、福田ときたら3回シャッターを切ったところで、「もういいでしょ。大丈夫だよね、プロなんだから」と言って、とっとと控室に消えてしまった。気の弱い(ホントなんだから)私は、曖昧な返事をして彼を行かせてしまったが、そ のあと不安に思って、本人なしでポスターを何種類かの撮り方をしておいた。

 結局、現像してみたら、本人も写っている方はやっぱりポスター自身が光ってしまって使えなかった。予備で撮った何枚かのうち、一番良いものを掲載したという次第。

 福田に「プロなんだから」と言われたときに「俺、写真のプロじゃないよ」と危うく言いかけた言葉を飲み込んだ。仮にも仕事で写真を撮って、それを有料の発行物に掲載しているのだ。自分の腕の質がどうあろうと、それは他人から見ればプロなのであって、少なくとも選手やサポーターに「プロでない」と言うべきではない。

 ただ福田には一言言いたかった。「プロなんだから3枚撮れば十分でしょ」というのは当たっているようで違う。近藤篤さんや山添敏央さんはそうかもしれない。しかし何十枚も撮って、結果として1枚の完成品を作るというのもプロだと思う。出来の悪いものを見せなければ、それでいいのだ。

 目的を達するためなら、何本フィルムを使おうが、選手の時間を消費しようが構わない、という気にならなかった私は、このときやっぱりプロではなかった。大原に来る取材者には、広報部を怒らせようが、他の記者に迷惑をかけようが、自分の目的だけは達して帰っていく“プロ”がいる。


こういうポスターです。みなさんご存じでしょ


でも3枚とも、こうなってしまいました

 5月5日発行のMDP141号の私のコラムに、「プロと“言い訳”」というテーマの拙文を書いた。ここで「プロ監督と“言い訳”」を考えたい。

 レッズの原博実監督は「選手がケガしているから、小野がユースでいないから勝てない、とは言いたくない」とよく言う。でも外国人監督は、試合に負けたとき、選手がユースに取られたせいだ、誰がケガでいないせいだ、審判のせいだ、選手が指示通り動かなかったせいだ、と並べ立てることが多い。彼らは間違いなくプロの監督だ。彼らは自分の実績を汚さないために、あらゆることをする。もちろんチームが勝つために最大限 の努力をするのだが、それが果たせなかったときには「自分は勝つための手を打ったが、外的要因がそれを阻害した」という。それがプロなのかもしれない。

 「プロなら言い訳するな」とよく言われる。しかし完全なプロであるはずの外国人監督はしょっちゅう言い訳している。原さんは、その点でまだアマチュアなのだ。プロならもっと言い訳しなければ。

 なんてね。実はこれはプロとアマの問題ではなく、日本人と欧米人(アジア人の監督は日本人以外に知らない)の気質の違いだろう。でも、もっと大事なことは、“言い訳”と負けた理由の分析を区別することだ。

 こういう会話はないだろうか。
 「どうして負けたんだ!」
 「これこれ、こうだった」
 「言い訳するな!」
 これじゃ、わがままオヤジが感情に任せて子どもを叱るのと同じだ。あ、僕か。

(1999年5月12日)