コラム

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「現場」ということ
清尾 淳 


 前回書いたテレビ朝日のディレクターKさんとは、今年の春からの付き合いだが、よくお会いする。小野伸二の定例記者囲み(リハビリ中の毎週木曜日)に必ず来られていたし、今年、テレビ朝日がレッズ戦を2回中継したこともある。

 そのたびによく話をするし、彼もレッズとレッズサポーターのことをよく聞いてくる。レッズのことをニュースステーションで報道するときに、そのことが役立ってほしいから僕も何でも話すようにしている。取材対象者のことをよく知る、というのは大事なことだと思う。

 村上龍氏が11月27日の駒場の雰囲気を自分で味わった訳でなく「甘いですね」と言っているのは、逆に「甘い」と思うが、彼の場合は駒場のレポートという仕事を与えられた訳ではないし、自分に振られて、自分の知識の範囲でしゃべってしまったのだろう。でもサッカー評論を仕事にしている人はどうだろうか。

 サッカーサポーターに影響の大きい、セルジオ越後氏が12月8日発売のD誌で、「J2落ちした選手に声援を送るなんて、レッズサポーターも落ちたものだ」という趣旨のことを書いている。

 僕は越後氏の評論に文句をつける立場にないけれど、彼はここ最近駒場にほとんど来ていないし、今年に関しては1度も取材に訪れていない。これはクラブにも確認した。ひょっとしてアウェー戦には来ているかもしれない。山中伊知郎さんみたいに自分で駒場のチケットを買って入っているのかもしれないけれど。

 試合ならともかく、応援についてはスタジアムにいないで、わかるのだろうか。応援の大事な要素は雰囲気作りだ。テレビで見たり、新聞や雑誌を読んだりしただけで、雰囲気までもわかるはずがないと僕は思う。

 大住良之さん、木村和司さん、財徳健治さん、藤口光紀さん。みんな11月27日に駒場にいた人たちだ。この人たちは、あの日のレッズの応援について誰も否定的に書いていないけれど、それは「甘い」のだろうか。僕はそうは思わない。一々引用しないけれど、あの駒場の雰囲気の中に居たら、感動せざるを得ないし、そう書かざるを得ないと思う。村上龍氏のコメントを聞いた後で、共同通信から配信されている木村和司さんのコラムを北海道新聞で読んで、「ああ、あの場に居た人と居なかった人ではこんなに違うんだ」と実感した。

 雰囲気に飲まれないで、「冷静に」判断する目も必要だ、ということはわかる。でも、それは現場にいないで評論していい、ということにはならない。特に今年のレッズの応援は、ずっと流れがあって最終戦につながっている。ホームの応援を今年一度も肌で感じないで、最終戦のようすをテレビや人づてに見聞きして、強烈な批判をするのは、乱暴だと思う。

 ついでに言えば、越後氏は同じ雑誌の以前の号で「レッズなら、熱いサポーターがいるからJ2に落ちても大丈夫だ」と書いてあったが、あれも無責任でおせっかいなコメントだと思った。こっちはJ2に落ちないように闘っている真っ最中だったのだから、たとえ好意的な書き方でも「落ちても大丈夫」などと、駒場に来てもいない他人様に保証してもらいたくなかった。

 先日、ある選手が話してくれた。「俺は最後に場内を一周しているとき、途中であることに気が付いたら急に涙が出てきた。どうして、この人たちは俺たちに拍手してるの?どうしてブーイングしないの?そう思ったら涙が止まらなくなった」。別の1人は「罵声を浴びせられた方がよっぽどいい。拍手されながら回る方がつらかった」と。

 今年、レッズが犯した過ちは、罵声を浴びるだけでは贖罪できない。かつて、情けなく負けたり、ふがいないプレーをしたりしたときに、強烈なブーイングを受けてきた選手たちだからこそ、この最悪な出来事の場面で、拍手や応援コールを受けることを身を切られるようにつらく感じている。

 越後氏は「子どもが悪かったら、たまには平手打ちをするのが親。子どもと一緒に親が泣いてどうする」という意味のことを言っている。サポーターが時には親の立場になる必要があることは否定しないけれど、11月27日のレッズサポーターは、自分自身がずっと闘ってきた戦士だった。J2降格が決まった瞬間、親に変身することなどできなかっただろう。ただ、これからの数カ月は、サポーターは厳しい親にならなければならない。

 ところで12日の天皇杯3回戦の駒場でのこと。リーグ戦でもおなじみの「○○なんかに負けへんで」という横断幕が出ていた。これは、あるレッズサポーターが、関西4チームの共通のキャッチフレーズ「負けへんで」をもじって、いつも相手チームの名前を入れて出しているもの。今回はアルビレックスが相手だから「新潟なんかに負けへんで」となるところが、旧国名を使って「越後なんかに負けへんで」となっていた。そして上に小さく「セルジオ」と入れてあった。

(1999年12月15日)