さいたまと
ワールドカップ





COLUMN●コラム


#068
  空気と包丁、どっちが危険?


 「清尾さん、応援のパフォーマンスで、物を投げるのは“有り”なんですか?僕は良くないと思うんですよ」。

 6月4日、レッズ-コンサドーレ戦のキックオフ前の慌ただしいとき、ゴール裏のスタンドの最前列で旗を振っているサポーターが、僕にこう聞いてきた。“応援のパフォーマンスで物を投げる”とは、試合前にURAWA BOYSのリーダーが気勢をあげるために「札幌グッズ」を次々と投げ捨てたことだ。僕が見た範囲ではサッポロビール(缶)、とうもろこし(たぶん北海道産)、サッポロ一番(カップめん)。そして最後が1l パックの牛乳。青色だったから、ポピュラーな雪印乳業のものだろう。右手で牛乳を高く掲げたリーダーはそれを頭からかぶって空のパックを投げ捨てた。捨てられたものはすべて(数ccの牛乳を除いて)、フィールド内に転がっている。昨今話題の「フィールド内に物を投げ入れる」という範疇に入りそうな行為だろう。

 「“有り”なんですか」と言われて、答えは頭に浮かんだが、なにしろキックオフ直前。くどくどと説明している時間がなかったので、「あとで」と言ってその場を離れた。  試合の後で、そのサポーターと会えなかったので、次のホームゲームで話をすることになると思うが、他にも関心を持った人がいるかもしれないし、ここ2回のMDP「TALK ON TOGETHER」に書いたこととも重大な関連があるので、このコラムでも触れたいと思う。

 “有り”か“無し”か、二者択一でしか答えられないとしたら、僕は“有り”だと言うだろう。僕の考えでは、サッカースタジアムで、絶対にやってはいけないことというのは「試合の進行を妨げること」だけだと思うのだ。だから、試合が始まっていないときに、ピッチに何も影響しない範囲で物がフィールドに落ちたって、二者択一なら“有り”なのだ。僕の考えでは。

 “有り”と言っても推奨している訳ではない。禁止項目をできるだけ少なくした方がいいという僕のスタンスでは、禁止項目には入らないというだけだ。今回の場合は、食べ物を粗末にするのは僕の感性には合わないから、あまり好きではない。しかし、それが周りのサポーターの士気を本当に高めるものなら、それでも構わないと思う。

 紙吹雪や紙テープが、レッズではなぜ認められているのかを考えればいいだろう。単純に言えば、危なくないからだ。掃除さえきちんとすれば問題ないのなら、サポーターが応援の手段としてやるのを禁止することはないだろう、というのが浦和レッズの考え方。掃除するのは、サポーターにもお願いしているが、最後にきれいにするのはやはりクラブが依頼した係員と駒場スタジアムだ。その分は他のスタジアムよりも経費がかかっているかもしれないが、それぐらいで済むことだったら、認めようじゃないかという訳だろう。

 レッズが主催者だったころの大宮サッカー場が紙吹雪OKで、アルディージャ主催の今年は「禁止」だったのを思えば、紙吹雪の問題はスタジアムの決まりだけではなく、主催者の考えに左右されることがわかる。

 実は駒場で試合のある日は、一番近くの家にSPDの社員が派遣されて、ホウキとチリトリを持って、紙吹雪が庭に入るのを防いでいるのを知っている人はどれだけいるだろうか。庭に入ってしまったのを取ろうとすると「勝手に庭に入ってほしくない」と怒られるから、ひたすらお詫びするのだと言う。だからレッズも風の強いときは紙吹雪の自粛をお願いしている。スタジアム外に飛んでいって周りの多くの民家に入ってしまったら、掃除のしようがないからだ。それでも「禁止」ではなく「自粛」である。あくまで自主的にやめてほしいのだ。

 だから、そういう日にも「自粛なんだから、やっても構わないだろう」と紙吹雪を撒く奴を見ると、がっかりしてしまう。ここまで「規制」「禁止」を避けている浦和レッズがわざわざ「自粛」をお願いするというのはどういうことなのか、考える力もないのか、と。ハートが通じないというのは悲しいことだ。

 ハート。そう、ハートなんだと思う。「他人に迷惑をかけるもの」「試合の進行を妨げるもの」は絶対に駄目、というハートさえしっかり通じていれば、それでいいと思うのだが。

 物はあくまで物。使う人間のハートによって何とでもなる。もしかして空のペットボトルを使って、応援のパフォーマンスを考えるサポーターが出てくるかもしれない。そのときレッズは「駄目」とは言わないのではないか。逆に紙だって、まるめて紙つぶてにしたり、ボール紙で手裏剣にしたり、段ボールでブーメランを作ったりして、相手や審判(時には味方)に投げたりすれば即、NGだ。

 空気は人間が生きていくのに必要不可欠なものだが、血管に注射されたら死んでしまう。刃物は下手に使うと危険だが、上手に使えば生活に欠かせない道具になる。ハートを語らずして“有り”か“無し”かは決められないのだ。

 

(2000年6月9日)