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COLUMN●コラム


#224
忘れていたもの


 え?別にエメルソンがいない方がいい、なんて思わないよ。
 確かに22日の鹿島戦はエメルソンに代わって田中が入ってから、急にレッズが良くなった。「純国産」でようやくもぎ取った1点。たしかにそうだけど、点が取れなかったのはエジムンドやエメルソンがいたから、じゃなくて、エジムンドやエメルソンに任せすぎていたから、じゃないだろうか。もちろん点にはならなくても惜しい場面はこの3試合でずいぶん(多少、か?)あったけど。


 エジムンドやエメルソンにボールを預けたら、あとは展開を見守る、という場面がこの3試合で少なくなかった。単純に言えば他の選手の動きが少なかった。エジムンドの動きが遅いことを指摘する向きもあるけど、彼がボールを持ったときに(本当はボールが渡りそうなときに)、周りが動けば局面を切り開く可能性はもっと高くなるはず。エジムンドに期待するのは動いて相手をかき回すことじゃなくて、パスかシュートかドリブルか、的確な判断と正確なプレーが第一なんだから、周りの動きでその選択肢を増やすことが肝心なんだと思う。


 先日、望月三起也先生のお宅にお邪魔したときに「負けても観客が納得できる試合とは」という話になり、先生は「泥まみれになって走ること」と言われた。僕もそう思う。
 「ただ闇雲に走ってるだけじゃしょうがない」「サッカーの下手さを根性論でカバーするもの」という意見もあるかもしれない。「せめて全力で走って、一生懸命やってると思ってもらおう」とか?
 そうじゃない。走ること、動くことは最低条件だ。それが前提にあって、さらに正確な技術とか高度な戦術が生きて来るんだと思う。
 磐田は強い。強いからあまり走らなくてもいいか、というとそうじゃない。動いている、走っている。その上で、止める、蹴るの技術が正確なのだ。MDPの211号を持っている人は14ページを見てほしい。上に永井の写真が、下に山田の写真がある。2人の周りに写っているのは磐田の選手ばかりだ。1対1の強さがずば抜けているのではなく、1対複数の作り方がうまいのだ。そのためにはハードな動きが必要になってくるが、それをきちんとやっている。だからルーズボールも取れる。パスコースも多く出来るから支配率も高くなる。そういうことなのだろうと思う。
 「負けても納得(満足じゃないぞ)できる試合」とは要するに、やるべきことをちゃんとやっている試合なのだと思う。


 レッズがそれをできないか、というとそうじゃない。鹿島戦の後半、田中が入ってからは全員が球のないところで積極的に動いていた。だから相手への寄せが一歩早くなったし、ルーズボールも取れた。山田の1点は本人の素晴らしい技術もあるが、あそこで啓太からナイスコースにパスが出たことも忘れてはいけない。それまでもサイドチェンジで山田に渡ることは何度もあったが、全体の攻めが遅いからビッグチャンスになかなかならなかった。あんなふうに走りこんでくる山田にパスが来るのではなく、止まっている山田にパスが出ることが多かったのだ。ちなみにカメラを構えていた僕は、ゴール前でボールを要求する田中を狙っていて山田のシュートはノーケアだった。GKの曾ヶ端と同じ。それほど、あのときの攻撃はそれまでのレッズとは違っていた。
 あの1点から流れが変わったね、とある記者が言っていたけど、僕は流れが変わったからあの1点が生まれたのだと思う。


 考えてみれば、去年調子の良いときのレッズはああいう動きがいつもできていた。去年の2ndステージの磐田戦なんて、その最たるもので、そう言えばあのときも「純国産」だった。誰かには頼れない。自分がやらないといけない。そういう状況では磐田、鹿島の選手を上回る動きができるのだ。それだけのトレーニングをしてきたのだから。
 エジムンド‐エメルソンのコンビは確かに強力な武器だ。その2人がピッチから消えたことで、選手は自分たちが忘れていたものを思い出した。そういう成果のあった鹿島戦だった。そのことを現場で応援していたサポーターも実感したからこそ、結果は1-3という完敗だったにもかかわらず、試合後は「浦和レッズコール」が響いたのだろう。
 もう忘れるな。エジムンドとエメルソンがピッチに帰ってきても、この試合の感覚を忘れてはいけない。そうすることで、レッズはようやく今季の前評判通りの成績に近づくはずだ。


 ところで「忘れていたものを思い出した」ことがもう一つある。
 最下位の味。J1復帰後、初めてだ。まだ1節だし、もしかすると次でいきなりトップ5入りすることも十分あるのだから気にすることはないのだが、やっぱり嫌なものは嫌だ。昔、散々味わったからなおさらだ。昨日、テレビで仙台‐大分戦を見ながら、阿部のロングシュートに「入れ!」と叫んだ自分がやや情けない。

(2003年3月24日)


<追伸>
  戦争という最大の暴力の前には、サッカーにおいての「戦う」とか「攻撃」とかいう言葉が無意味に思えてくる。サッカーの場に政治的なものを持ち込むな、という意見もあるが、「反米」は政治的であっても「反戦」は本来政治的でも何でもない。アメリカと近い関係にある日本では、その二つを結びつけやすいから、「反戦」というとすぐに政治的と思われてしまう。サッカーという「戦い」を誰もが安心して楽しむためにも平和を。そういう思いのどこが政治的だ!