Jリーグが始まったころ、浦和レッズのメディアへの露出量は極めて少なかった。スポーツ紙の1面はもちろん、サッカー面のトップを飾ることなどほとなかった。「相手チーム」としてや「マラドーナがレッズに来る」とかいう空想記事は別にして。サッカー専門誌同様で、Jリーグが今の半分近くのチーム数だったにもかかわらず、レッズについて割かれるスペースは、平均よりも少なかった。
それは当然だろう。勝負が第一のプロスポーツの世界で、負けたチームの扱いが小さいのは当たり前だ。人気といっても、当時の駒場競技場のキャパシティでは、発足当時のJリーグ人気の中で、浦和レッズの人気の高さを数字で示すに至らなかった。
そういう点では、埼玉新聞、テレビ埼玉、浦和CATV、NACK5ら、レッズをメーンで取り上げる地元マスコミの存在は、ファン、サポーターにとって貴重だった。
もちろんMDPもその一つで、雑誌媒体としては当時「アールズ・ラ・ボンバ」(のちに「レッドウィン」)や「タウン情報YOU」などがあったが、発行頻度の上ではダントツだった。正直言ってしまえば、雑誌作りに慣れていない僕がMDPの編集責任者としてやって来られたのは、クラブの広報誌というよりサポーターの目線で作っていたこともあるだろうが、競合媒体がほとんどない状態だったから、ということもある。
93年、94年のころは、サポーターの声を載せるページが少なかったこともあるが、試合のたびに載せきれないほどの投稿が来た。まだEメールのない時代だから、FAXかハガキである。封書による長い手紙も珍しくなかった。みんな、レッズに何か言いたい、レッズのことを語りたい、という思いを、MDPへの投稿に託していたのだ。
しかし時代は徐々に変わっていく。インターネットが発達し、掲示板ができた。採用されるかどうかわからず、掲載されるのに時間がかかるMDPへの投稿より、確実かつ迅速に掲載されるネットの方がいい。載る媒体は何でも、とりあえず言いたいことを綴る先が増えたからだろうか、サポーターからMDPへの投稿は減っていった。
97年。Jリーグ人気のかげりがはっきりし、経済状況がクラブの経営に影響を及ぼすようになって、Jリーグ各クラブの入場者は減っていった。しかしレッズ戦だけは、ほとんど満員という状況を維持している時代になって、レッズはサポーターの熱さだけではなく、人気の度合いも日本でナンバーワンということが数字で見えるようになってきた。そうなると、マスコミに取り上げられる頻度も増えていく。特に98年に小野伸二が加入し、優勝争いにも加わるようになってからは、それが顕著になってきた。
サポーターの議論の場はMDPからネット掲示板へと移り、選手の横顔や試合内容、クラブの情報がMDPだけでなくサッカー雑誌やスポーツ紙に載るようになっていった。それまでは、何を書いても「特ダネ」だったMDPだが、変わっていかざるを得なくなった。 |