Weps うち明け話
#184
一つになるということ
 あれれ?
 シーズンが始まったころには、ナビスコ杯は予選1位になると準々決勝で第2戦がホームになると確かに聞いたのに、次のMDPの準備してるときに確認したら、どうやら1位になると第1戦がホーム、2位になると第2戦がホームらしい。#183で違うこと書いてしまった。申し訳ない。
 どっちにしても忙しさの可能性は変わらないが、相手がどこになるかは大きな違いだ。その日のうちに帰って来られない場所だと選手もサポーターも、次の試合まで間がなくて大変だから。そのあたりは、どのチームにとっても同じ条件かもしれないが。

 さて、3日の磐田戦でまた1人、永田拓也が公式戦デビューした。これで公式戦を1度も経験していない選手は3人に減った。日本代表とケガ人を合わせて12人が出られない状況だったのだが、新人選手というのはチームにとってそういうネガティブな状況のときに、初出場のチャンスが来ることが少なくない。だが出ただけでは意味がなく、そこでどういう貢献ができるかで、次のチャンスをもらえるかが決まる。
 正直いえば、このナビスコ杯で出た濱田、西澤、永田は、フルメンバーがそろっても出場できるだけのパフォーマンスを見せられたか、というと疑問符がつく。しかし、ここまでのことはできる、という計算が立ったのではないか。さらに本人も、今の自分が公式戦で何ができて、何ができないか、ということが身体でわかったはずだから、今後の目標ができたはずだ。

 チームが振るわないときに「誰々がケガしているから」「ケガ人が多いから」というのは理由として挙げられやすい。実際に主力が欠ければ戦力ダウンになるだろう。しかし、じゃあそのケガ人さえ復帰すれば必ず立ち直るのか、といえばそんな保障はどこにもない。試合に復帰してもフィットするには時間がかかるかもしれないし、もしかしてその選手がいない間に別のスタイルが染み付いてしまって、合わなくなってしまうことも考えられる。
 よく「誰が出てもやれる」と監督が言うが、それはマスコミを通して代わりに出る選手に聞かせる言葉であることが多い。あるいはハッタリか。現実にはそんなことはなく、本当に誰が出ても同じなら、ポジションごとにガラガラポンして先発を決めればいい。いつも明確な序列があるのに、そういうときだけ「誰が出てもうちは変わらない」というのは説得力に欠ける。
 フィンケはある部分で本当に正直だ。新潟戦の前にはメンバー的に厳しい状況であることを隠さなかったし(隠しようがないが)、「誰が出ても変わらない」とは言わなかった。その代わり、「ベストのメンバーではなかったとしても、ファイトあふれるプレー、豊富な運動量、勝とうという強い意思を見せることをサポーターの皆さんに約束したいと思います」(新潟戦前日)と言った。暗に、技術的には落ちるかもしれないが、と言っているようなものだ。磐田戦後には、「今日のような選手たちとともに勝利を収めることができたことに関しては、大きな喜びを感じています」。まるで、よく勝った、と喜んでいるようだ。
 サポーターもそれを理解して、多少のミスには目をつぶる。だから思い切ってやれ、みたいなムードを埼スタでも駒場でも作り、チームをサポートした。

 今季、言葉で「一つになろう」ということが少ない。それは口にしなくてもいいからだろう。
 チームは、経験ある選手と若手が互いに理解しあってよい関係を作っている。監督は強がりも言わず負けたときの伏線も張らず、チーム状況を正直に明かし、サポーターはチームの弱点を理解して、それをカバーするようなサポートをする。
 監督と選手、若手と経験ある選手、チームとサポーター、それぞれに役割が違う。しかし目指すところは同じ。それぞれが自分の役割をしっかり果すというのが、黙っていても一つになる、ということなのかもしれない。
(2009年6月5日)
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