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#275 |
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ありがとう |
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人前でしゃべることは、そう苦手ではない。ただし話す内容が決まっていれば、だ。 2月6日(日)、ある本の出版記念パーティーに招かれた。特に何も頼まれてはいなかったが、もし挨拶を頼まれたら、どう切り出そうか、会場に着くまで、いや着いてからも迷っていた。 今年の1月末に刊行された「ありがとう 浦和レッズ」(佐藤亜希子さん著/無明舎出版)。朝日新聞の埼玉版で報道されたからご存知の方も多いと思うが、著者は故人。昨年の6月13日に、白血病のため33歳の若さで亡くなった。この本は、亜希子さんが2004年から始めたブログ「きまぐれレッズ日記」のうち、本格的な闘病生活が始まった09年から亡くなる直前までのものを抜粋し、ご両親が刊行したもの。6日のパーティーは、亜希子さんのサポーター仲間が開催し、ご両親は言わば主賓だ。 出版記念パーティーなのだから、通常はお祝いの言葉を述べる。だが亜希子さんが存命だったら、この本は出ていなかったはず。半年前に最愛の娘を失ったばかりのご両親の前で「おめでとうございます」とは、どうしても言えないと思った。結局その機会はなかったので、僕の迷いは杞憂に終わったのだが。 亜希子さんは埼玉県三郷市で生まれ育った。大学を出て、就職したころは、生観戦に行くほどサッカーへの興味はなかったが、会社の友人に誘われて埼スタを訪れたのがきっかけで、翌年からは前述のブログも開設するほどのサポーターになった。近隣はもちろん、遠くのアウェイにも行くようになり、大原サッカー場にも通い出す。中でも一番好きなのは堀之内聖だった。どうしてだろう?年齢が比較的近いということもあるのだろうか?6日の会にも姿を見せた堀之内本人は挨拶で「華やかな選手が多いレッズの中で、どちらかといえば自分は“玄人好み”の選手(笑)。だから亜希子さんも相当な“通”だったに違いありません」と語っていた。 急性骨髄性白血病という病魔が発覚したのは09年4月4日。入院となり、ブログは闘病記のようになるが、その中でもレッズへの気持ちは伝わってくる。というより、レッズの存在が闘病生活の大きな支えになっていたであろうことは、本の内容から容易にわかる。この年は入退院を繰り返していたが、12月に症状が大きく改善し、完全退院となる。このときの亜希子さんの喜びは文字を追うだけでも、その場に立ち会っているかのようにわかる。しかし、この数か月後を知っているから、伝わってくる喜びの数倍の悲しみを抱かずには読めなかった。 これからこの本を読む人もいるだろうから、詳述はしない。月並みに聞こえるだろうが率直な感想だけ書いておく。 多くの人は生活のために頑張っている。しかし生存そのもののために、文字どおり「生きるために」頑張らなければならない、という事態に直面することもあるのだ、ということを自覚した。生きて何かをする、ということをもっと大事にしようと思う。自分が生きている意味、普通の生活が送れることの素晴らしさというものを、たまに考えるようにしよう。 こんなことを、これからずっと忘れずにいられるか自信はない。が、今はそう思っている。 6日の会には、亜希子さんのご両親を始め、ご親族、勤務していた会社の同僚や上司、サポーター仲間ら、約30人が集まり、思い出を語り合っていた。レッズからも堀之内とご両親、トップチーム主務の水上さん、社長補佐の白戸さんが出席していた。堀之内は「レッズはしばらくタイトルから遠ざかっていて、亜希子さんも“おかんむり”だったと思います。今年こそ亜希子さんに良い報告ができるように頑張ります」と決意を述べた。 この本は、亜希子さんが亡くなってしまった証。碑のようなものだと思うと、やはり「おめでとう」とは言えない。 だが33歳の人生の、最後の7年間を浦和レッズと共に過ごしてくれたこと。白血病と闘う苦しい日々も、浦和レッズのことを気にしてくれたこと。そして、そのことをブログに残してくれたこと。それらのことを本当にうれしく思う。 さらに、娘さんのブログを読み返すたびに涙しながら、こうして本という形にしてくれた、ご両親と伯父さんに、感謝する。 いま思った。ウソでなく本当に、いまやっと思いついた。 もし僕が、6日の会で挨拶させていただいたとしたら、こう切り出せば良かっただろう。 「ありがとう、浦和レッズ」の出版、ありがとうございます、と。 ありがとう、佐藤亜希子さん。 |
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(2011年2月8日) | |||
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〈EXTRA・1〉 ところで亜希子さんと面識がなかった僕が、この会に呼ばれた理由。それは、僕の撮った写真を本のカバーにしてもらったからだ。昨年4月14日、ホームズスタジアムでのナビスコ杯神戸戦後の写真。亡くなる2か月前の写真、ということになる。 明子さんたちが最前列に行くことは珍しい、とサポーター仲間から聞いた。スタンドが高いホムスタではアップで撮れるのは前の方のサポーターだけだから、この日が水曜でスタンドが空いていなかったら、亜希子さんは最前列におらず、写っていなかったかもしれない。 試合は後半14分に先制され、21分の高原のゴールで追いついた。阿部の逆転弾、エジミウソンの追加点がなかったら、あるいは加藤が相手のPKを(やり直しも含め)二度にわたり止めていなかったら、「We are Diamonds」は歌われなかったかもしれない。 この写真が使われるきっかけは、4月18日のMDP(川崎戦)に掲載されたからだ。もし亜希子さんが持っていたマフラーがボーダー柄でなく文字柄で、文字が天地逆だったりしていたらMDPには掲載していなかった。何より、亜希子さんが勝利の後にふさわしく、誇らしげに「We are Diamonds」を歌っていなかったら掲載していたかどうかわからない。 いろんな偶然が重なったのだけれど、自分の写真がこんな価値ある本のカバーを飾らせてもらったこと。そのことにも、もちろん深い感謝を申し上げます。 〈EXTRA・2〉
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