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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第四部 レッズの闘将たち

① 初代監督・森 孝慈

 土田尚史は1989年、三菱重工に入社して「冷熱事業本部空調機輸出課」に配属された。職場の上司に森孝慈氏(以下、敬称略)がいた。森は当時、三菱サッカー部の総監督という肩書きで、新人選手の獲得や日本リーグ、サッカー協会との折衝など、いわゆるフロント業務を担当しており、サッカー部の現場に出てくることはなかった。

 上司としての森は、仕事を先頭に立ってこなし、部下の面倒をよく見る人だった。土田がたまに夜遅く会社に行くと、必ず残って仕事をしていた。

 一方、酒を飲むときはとことん飲んだ。土田が仕事の関係で酒を飲むときは必ず深夜まで一緒に過ごし、何度かは土田が森を家まで送り届けた。しかし翌日は、けろりとして出社してきた。

「遊ぶときは遊べばいい。しかし酒を飲んで翌日辛いと言うなら、最初から飲むな」が口癖だった。

 森は1943年生まれ。広島県の修道高校から早稲田大学に進んだ。MFで早大在学中に天皇杯を2度制し、日本代表選手として1964年の東京五輪にも出場した。

 1967年に三菱入り。翌年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得し、三菱では日本リーグ2回、天皇杯2回の優勝を経験している。

浦和レッズの初代監督に就任した森孝慈氏

 1981年から5年間、日本代表監督を務め、1986年のワールドカップ・メキシコ大会出場へもう一歩のところまで日本サッカーを押し上げた。

 三菱サッカー部総監督としての森は、代表監督時代の経験から、日本サッカーをプロ化する必要性を強く感じ、三菱のプロリーグ参加を果たすべく活動していた。1990年当時は、ホームタウン候補の浦和を毎週のように訪れていた。このフロント活動時代に、多くの人と関係を築いた。

 そしてJリーグが発足し、三菱浦和フットボールクラブ(浦和レッドダイヤモンズ)がスタートした1992年春、森は初代監督に就任した。

(続く)

 

【メモ】

土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。

 

(文:清尾 淳)