Weps うち明け話 文:清尾 淳

#908

サプライズ

 11月9日(水)のこと。
 連れて行かれたのは、偶然にもよく知っているお寿司屋さんだった。
 入る前に店の外で、なぞかけをされた。
「今日は清尾さんが以前にリクエストしたものをそろえました。さて、なんでしょう」

 は?
 僕を呼び出したのは、北浦和で事務所をルームシェアしている会社の社長で、元埼玉新聞社の後輩。夏ごろに僕が何かをリクエストして、それを用意したから何だか当ててみろ、と言う。

 夏にリクエストして、最近入荷したもの。そして寿司屋。
 カニ?
 いや、違うな。カニなら僕の方が詳しい。

 そろえる、ということは一つじゃないのか?
 各地の牡蠣の食べ比べ。
 うまい日本酒。
 どっちもないな。そういうものを、僕がそいつにリクエストするはずがない。まてよ、料理や酒ではないのか。そしたら…、

「同窓会?」
 ピンポーン!
 確かに以前、久しぶりに埼玉新聞社時代の仲間と飲みたいね。じゃ、お前が幹事やって集めろよ。
 そんな話をした記憶がある。それは非常にうれしい飲み会だ。
 でも、だったらそう言えばいいのに、どうして何も教えずに時間と場所だけで呼び出したりするのか。

「今日は、マッチデー・プログラム500号突破のお祝いに、みんなが集まりました!」
 マジかよ!

 店の2階に上がると、懐かしい顔ぶれが、すでに待っていた。かつて直接一緒に仕事をした仲間や、同じフロアで働き、たまには飲んでいた連中。生意気だった僕をうまくコントロールしてくれていた、当時の上司も来てくれていた。
 埼玉新聞社は、僕が退職した2005年の3年後、さいたま市浦和区から北区に社屋を移転したのだが、僕は不義理をして一度も訪問していない。なので本当に11年ぶりに顔を合わせる人もいた。それだけで十二分にうれしかったのだが、MDP500号を祝って集まってくれたということに、目頭が熱くなった。
 MDP500号については、僕自身の力など大したことはなく、発行し続けたクラブと買い続けてくれたファン・サポーターがあってのことだと本気で思っているし、ずっと僕を使ってくれたことに感謝している側だから、「おめでとう」と言われると気恥ずかしくなってしまうのだが、この日だけはみんなの「おめでとう」という言葉を素直に受け止めた。

 実は、ずっと埼玉新聞社に対して、ある種の後ろめたさを感じていた。
 言うまでもなく、MDP編集の仕事を持って僕が退職したからだ。理髪店にたとえると、常連客がついている理容師が独立して客を持って行ってしまうようなものだ。
 僕がMDPの編集に携わるようになったのは、#903、#904で書いたように不思議な縁なのだが、在社中に足かけ13年かけてMDP編集のスキルをある程度身に付けさせてもらったことは間違いない。もっと言えば、大学出たての素人を、24年間給料を払いながら(ほぼ)一人前の社会人に育ててくれた会社を、お礼奉公もせずに辞めたわけで、しかも退職金までもらうのである。こんな考え方は「労働者階級の敵」なのかもしれないが。

 僕が辞めようが残ろうが、MDPの仕事が埼玉新聞社から引き上げられるのは、クラブの方針として決定していたのだが、だったらMDP以外の仕事で埼玉新聞社の社員として働き続ける道もあったわけで、そっちの道を選択せずに、自分がやりたい道を選んだことは間違ってはいないと今でも思っている。しかし、今も首都圏の地方紙という困難な条件の下、懸命に頑張っているかつての仲間たちに対しては、申しわけない、という気持ちが先に立ってしまうのだ。
 特に、この日も出席してくれたが、僕がMDPを作り続けたいので会社を辞めたい、と申し出たときに「清尾がやっていけるのなら、それでいい」と快く送り出してくれた当時の上司への感謝は生涯忘れない。

 MDPを作り続ける原動力となっているのは、第一にサポーターの期待に応える、という部分だが、この日、新しいモチベーションが生まれた。
 今回、500号達成を、各紙やテレビが紹介してくれたが、もっともっとJリーグで最も歴史のあるマッチデー・プログラムとして全国に知れ渡るようになるまで頑張りたいと思っている。そして、そのスタートが埼玉新聞社にあったということを必ず伝えていきたい。

 だから「私史」も復活させねば。

(2016年11月11日)

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