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- サッカー人生ハーフタイム
西野努「神戸大で何が悪いねん!」
第二部 9年間、闘ってきたもの
⑦ 力になれない悔しさ
「なんでいまクビになるんや。これから巻き返しやないか」
1999年6月19日、駒場スタジアムで行われたナビスコカップ2回戦第2戦で、レッズが大分トリニータを降した日。西野努はロッカールームで原博実監督の解任を知らされた。
5月29日に終了した第1ステージは、16チーム中13位に終わり、さらに1週間前に行われたナビスコカップ2回戦第1戦ではJ2の大分に0-1という結果だったことから、このシーズンから導入されたJ1・J2自動入れ替え制度をにらんで、クラブが決断したものだった。
西野は、原氏がケッペル前監督時代にコーチをしていた97年、練習後に特訓の相手をしてもらい、ヘディングの技術を磨いた。
同氏が監督に昇格した98年からは、ほぼレギュラーとして起用してもらい、その影響もあってか、一時は日本代表候補合宿にも招集された。西野にとって、言わば大恩人だった。
プロだからチーム不振の責任を問われるのは仕方がない。しかし選手である自分が、お世話になった原氏が辞めるときに何もできないことが悔しかった。西野の右足はギプスで固められていたのだから。
99シーズンの後半は、チームの成績にやきもきしながら治療に専念するしかなかった。当初の見込みでは全治3~4か月だったから10月には合流するつもりだった。そうすれば、当時「ファイナル・ファイブ(あるいはファイブ・ファイナルズ)」と呼ばれた10月30日からの、残留を懸けた終盤5試合に参戦できていた。
右足骨折中の西野(1999年6月8日撮影)
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しかし回復は思うように進まなかった。93年の新加入当初と違って身体に自信もついてきた西野にとって、治りが遅いのはショックだった。
「俺はこの世界に向いてへんのかな。持って生まれたもんが違うのかもしれん」
子どものころからきちんとしたサッカーの指導を受けたことはなかった。プロになろうなどとは夢にも思わず、好きでやっていただけ。レッズに入ってからの努力で、ある程度はカバーできても、根本的な資質が不足しているのかもしれないとも考えた。
なかなか復帰できない自分を見つめながら西野は悔しかった。結局、最後まで試合に復帰することなく、チームの降格を目の前で見た。
(来年の契約は無理やろうな)
クビを覚悟した西野だったが、11月末にはクラブから契約更改の通知が来た。提示された年俸は大幅にダウンしていた。
「むちゃくちゃ安いけど、半年プレーしてない身ではしゃあないな」
翌年の自分の再起とチームのJ1復帰を誓って、西野は契約書にサインした。
(続く)
(文:清尾 淳)