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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第一部 コーチ兼任から引退へ

① 2000年11月19日 もう一つの「この日」

 2000年11月19日午前11時半。浦和市駒場スタジアムにレッズのスタッフや選手を乗せたバスが到着した。次々とバスを降りる選手たちの中に、GK土田尚史の姿もあった。

 2000シーズンJ2リーグ最終節、浦和レッズ対サガン鳥栖。

「とうとう、この日が来たんだなあ」

 レッズはここまで勝点80で2位。3位の大分トリニータは78だった。

 Jリーグの勝点制は、90分での勝利に3、延長Vゴール勝ちで2、引き分けなら1。

 大分がこの日勝点3を上げれば81。レッズが勝てば82あるいは83となるから大分を抑えてJ1昇格の条件である2位でリーグを終えることになる。

 しかし、もし引き分けて81にとどまれば勝点で並ばれ得失点で逆転される。大分が、今季3勝している大宮アルディージャを相手に勝点を取りこぼすのを期待するのは虫が良すぎる。

 レッズが1年でJ1復帰という悲願を達成するためには、この日の鳥栖戦で最悪でも延長勝ちしなければならなかった。

 シーズン当初の思惑では、何節も前にJ2リーグ1位で昇格を決めているはずだった。それが一つ負け、二つ負け。あるいは延長に持ち込まれるなどして、気がつけば2位確保がギリギリの状態で最終節を迎えていた。

「とうとう、この日が来てしまった」というのは、すべてのレッズ関係者に共通する思いだった。

 しかし、土田尚史にとって、2000年11月19日は、もう一つの「この日」だった。

 

 現役引退。

 プロスポーツ選手なら誰もが通るこの門を土田はこの日、くぐろうとしていた。

 何日も前からそう決意していたことが、現実となる。数々の思い出がある選手生活に、別れを告げる日がとうとう来てしまったのだ。

 1989年の三菱重工入社以来、GKとして11年間在籍したチーム。今季、コーチ兼任となり公式戦でプレーすることは一度もなかったが、登録上は選手。その、選手として登録されるJリーグ最後の試合が、この日の鳥栖戦だった。

 もしレッズが当初の目標どおりJ1昇格を早々と決めていたら、土田は自分の引退へのカウントダウンをじっくりとかみしめることができただろう。あるいは最後にもう一度選手としてゴールマウスに立つことがあったかも知れない。

 しかしJ1昇格は最終節まで持ち越し。駒場スタジアムについてバスを降りたときにはわずかにあった「今日で引退」という感激は消え、この試合に勝ってJ1昇格を果たすことしか考えられなくなった。

 

 12時20分、ピッチで選手のウォーミングアップが始まった。土田はこの年残り7試合になって先発に抜擢されたGK西部洋平の練習相手を務めた。

 J1復帰かJ2に残留か。1年間で最も重い意味を持つことになった最終節に、選手として出場することができない。レッズJ1復帰のために自分ができることは、ゴールを守る西部の調子を上げることだけだ。

「絶対に勝てよ。絶対に入れさせるなよ」

試合前にベンチ外の選手たち一人ひとりと握手する土田

着ているジャージが選手のものとは違う(2000年11月19日)

 土田は1年間の思いを込めて西部にボールを蹴ってやっていた。

 試合中の土田の居場所は微妙だ。ベンチに入るスタッフ6人はほかに決まっていた。この年、駒場での土田のポジションはレッズのベンチと「キャノピー・ブリッジ」と呼ばれる移動式ゲート付近が定位置だった。

 そこでピッチの中の選手に負けない大声を出す。

「引くな!」「次だ、次!」

 思わず身体が前に出てしまい、第4審判に注意されたことも一度や二度ではなかった。

 常にピッチの11人と共に闘ってきた土田だったが、この日はいつも以上に身を乗り出していた。

(続く)

 

【メモ】

土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。

 

(文:清尾 淳)