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- サッカー人生ハーフタイム
土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第一部 コーチ兼任から引退へ
③ 自分の出場よりJ1昇格
「これでいい。これですべてOKだ」
レッズのVゴール勝ち。劇的な瞬間が過ぎると、土田尚史は選手とスタッフが大騒ぎする輪から徐々に離れ、ロッカールームの外のベンチに一人座って泣いていた。
1年でJ1復帰という目標を果たした喜びは、ほかの選手たちと共通だった。だが決定的に違うことがある。仲間たちの多くは来年J1でプレーできる喜びが、この後に湧いてくるはずだ。しかし自分がプレーヤーとして新しいシーズンを迎えることはない。
兼任コーチを引き受けたときから、選手としての自分に決別する覚悟はしていたはずだった。しかし1年間、いつも心のどこかで引っかかっていた。
自分の名前は選手として名鑑にも試合のマッチデー・プログラムにも掲載されている。しかし出場することはまず考えられない。「ほかの選手が不調だったら自分が出る」とは言っていたが、その機会があってはならないことは自分が一番よく知っていた。
そう自覚している自分が嫌だったこともあったし、そのことで妻と喧嘩もした。兼任コーチになったことを全く後悔していない訳ではなかった。ではなぜ引き受けたのか。考え始めると、いつもそこに戻ってくる堂々めぐりだった。
「上がればいい。J1に上がればすべてOKだ」
そう思うことに決めた。10か月間続いた葛藤は、J1に復帰することで、すべて帳消しにしよう。そう考えていたのだ。これでやっと、この10か月間が意味あるものになった。自分自身の進退を考えるのはそれからだった。
Jリーガーが引退する場合、シーズン終盤にクラブから来季の契約をしない旨を通知されて、プレーできるほかのクラブを探すか引退するか、という決断を比較的短期間のうちにすることがほとんどだった。
土田の場合は、10か月かけてその決意をしてきたとも見えるが、兼任コーチを引き受けたとき現役引退も考えたものの、その後はチームのJ1復帰だけに頭が行って、自分のことはほとんど考えられなかった。いや、考えないようにしてきた。
2000年11月19日午後3時。ベンチで一人大泣きする土田は、ようやくはっきりと現役引退を覚悟した。
レッズはシーズン最後のホームゲームが終わると、選手・スタッフがスタジアムを一周して、ファン・サポーターに感謝の意を表わす。2000シーズンの場内一周は、J1復帰を決めたレッズの最高のフィナーレとなった。
土田もチームメートと共に駒場スタジアムのトラックを歩き始めた。思えば前年、ここを一周したときは、J2降格が決まった後だった。
「あのときは降格がなかなか信じられなかった。でもサポーターはみんな『来年頑張れよ』って励ましてくれたなあ」
最終節が終わり場内を一周する土田。 この年初めて2人の娘たちを連れて回った(2000年11月19日) |
そんなことを考えながら歩き始める土田に、長女の桃子ちゃん(6歳)と次女の菜々子ちゃん(3歳)が走ってきた。
土田の手にすがりついて、お姉ちゃんの桃ちゃんが聞いた。
「パパ、引退するの? 引退ってサッカー選手やめちゃうんでしょ?」
シーズン最後の場内一周のとき、自分の子どもを連れたり抱いたりして歩く選手もいるが、土田はそうしたことがなかった。しかしこの日2人の娘を連れて試合を見に来ていた奧さんの江美子さんは、幼い姉妹に言った。
「ほら、パパのところに行ってらっしゃい。パパ、今日で引退なのよ」
引退、という言葉の意味を知っていた桃ちゃんはびっくりした。自分にとって「パパ=浦和レッズのゴールキーパー」だった。そのパパがサッカー選手でなくなってしまう。土田に「引退するの?」と聞いた桃ちゃんはそのまま泣き出してしまった。
自分の引退を娘がこんなに悲しんでいる。J1復帰の喜びに涙を全部流してしまったはずの土田だったが、その姿を見てまた泣かずにはいられなかった。お姉ちゃんとパパが泣いているのを見て、妹の菜々ちゃんも悲しくなってしまい「うぇーん」。
泣きじゃくる2人の娘を連れて土田は再び歩き始めた。
バックスタンドの前を通り、ゴール裏に続くコーナーに差し掛かると、突然スタンドから10数人のサポーターが降りてきた。
「おつかれさん」
「ありがとう」
土田の大きな身体を何度も宙に舞わせた。横で桃ちゃんがひときわ大きな声で泣いていた。
胴上げされる土田の心にようやく「引退」が実感として湧いてきた。
(続く)
【メモ】
土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。
(文:清尾 淳)