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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第二部 プロサッカー選手として

② 代表GKになりたい

 三菱サッカー部は、日本リーグ2部に落ちた89/90シーズン、断トツの成績で優勝した。新人選手だった土田尚史も3試合に出場した。

 日本リーグ1部復帰を果たした90年、三菱は選手のプロ化を始めた。

 原博実(のちレッズ監督)、名取篤(のちレッズコーチ)、広瀬治(のちレッズユース監督)ら、先輩たちが社員を辞め、新たにプロ選手としてチームと契約していった。

 

 土田は、実は大学時代、日産自動車から熱心に誘われた。チームの練習にも参加したし、上海遠征に帯同したりもした。本人も大学を卒業したら、日産に入るつもりでいた。

 それが4年生のとき、日本代表Bに選ばれ、アジアカップに出場してから考えが変わった。

「日本代表の正GKになりたい」

 大きな目標ができた。

 当時の日本代表GKは松永成立選手。日産の正GKでもあった。土田がお世話にもなり、尊敬もしていた。

 しかし日本代表GKになるには、まず所属チームの正GKにならなければならない。

「松永さんと同じチームに入ったら、追い抜くのに時間がかかる」

 それまで先輩として尊敬していた松永選手を、ライバルとして見るようになった土田は日産入りをやめ、同じく熱心に誘ってくれた三菱を選んだのだった。

 

 プロになることは三菱入りしたときから頭にあった。大企業の社員という立場を捨てることに、あまり抵抗はなかった。

 だが、まだチームの正GKの座をつかんだわけでもない状況で、三菱のプロ一期生の中に入るのは少しためらわれた。結局、土田がプロ契約を結んだのは、次のシーズンが終わった91年6月だった。そのころになると、リーグ自体がプロになるという構想が進んでいた。

「俺もいっちょう、やったろうか」

 プロ選手になって、一人暮らしを始めた。収入は増えた。社員時代より、お金を大事にするようになった。そして、交際していた江美子さんと結婚した。

 プロ契約、結婚。土田にとって、サッカーに集中する環境が整っていった。同時に試合に出場する機会も増えていった。

(続く)

 

(文:清尾 淳)