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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第二部 プロサッカー選手として

③ 期待と不安、Jリーグ前夜

 91年6月。最後のボーナスをもらってから、土田尚史は三菱重工業を辞め、プロサッカー選手となった。独身寮を出、結婚して住まいを中野に替えた。妻の江美子さんが通う丸の内と、練習場のある調布の中間点だった。

 生活そのものはあまり変わらなかったが、サッカーに対する考えは変化していった。

「自分が好きなサッカーをやって、お金が稼げるんだ」

 サッカーがますます楽しくなり、すべてをサッカー中心に考えるようになった。91/92シーズン、三菱は最後の日本リーグで5勝6分け11敗の11位と、成績は芳しくなかったが、土田は12試合に出場し、レギュラーへの足場を固めていった。

 プロ選手としてまずまずのスタートは切ったが肝心のプロリーグがどうなっていくのかは想像もつかなかった。

 

 91年の2月に、プロサッカーリーグ(Jリーグ)を構成する10クラブが決まり、三菱も浦和を本拠地として参加することが決まっていた。

 三菱とのつながりの薄い浦和に本拠地が決まったのは意外だったが、チームには埼玉出身の選手が少なくなかったので、違和感はなかった。浦和はサッカーが強い、という印象があり、浦和市立高校のオレンジ色のユニフォームが記憶にあった。

朝霞市中央公園陸上競技場こけら落とし

朝霞市中央公園陸上競技場のこけら落とし

「浦和レッズvs横浜マリノス戦」は満員の観衆の中で行われた

(92年8月9日)

 

 92年4月。三菱サッカー部は名称を三菱浦和フットボールクラブに変更し、ホームスタジアムになる浦和市駒場競技場で、タイのチームと親善試合を行った。通称は「浦和レッドダイヤモンズ」になった。

 土田が浦和をホームタウンとして意識したのは、浦和青年会議所が主催した「24時間マラソンサッカー」に招かれたときだった。市民がチームを作って参加する様子に、「サッカーのまち」という思いを強くした。

 その後、8月に朝霞市のグラウンドのこけら落としで日産と親善試合をするなど、レッズは地元への浸透を図っていった。

 

 そして9月4日。チームは大宮のホテルに宿泊していた。Jリーグ初の公式大会、ヤマザキナビスコカップの開幕前夜だった。

「いったいどんなことになるんだろう」

 期待と不安の入り交じった夜を過ごした。

(続く)

 

(文:清尾 淳)