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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第二部 プロサッカー選手として
⑤ 「プロってなんだろう」
1992年のJリーグヤマザキナビスコカップは、10チームが総当たりで予選リーグを行い、上位4チームがあらためて準決勝、決勝を戦う方式だった。さらに90分以内に挙げたゴール2点につき「ボーナス勝点」1が与えられ、最後まで得点を狙う姿勢が促進された。
ジェフユナイテッド市原との初戦を落としたレッズは、その後も勝ったり負けたりで4勝4敗となり、最終節で90分以内に2点以上を挙げて勝てば4位に入れる状況だった。10月11日、神戸ユニバー記念競技場で行われたガンバ大阪戦で、レッズは2-1で勝利したが、2点目は延長に入ってからだったので「ボーナス勝点」はなく、予選リーグ5位となった。
Jリーグ初の公式大会ナビスコカップ9試合全部に出場した土田
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予選リーグ9試合全部に出場した土田尚史は、準決勝に進めなかった悔しさを感じながら、充実感を味わっていた。
「自分は何も変わっていないのに、この気持ちは何だろう」
ジェフ、サンフレッチェ、などという名前を付けてはいるが、選手も関係者もみんな口にするときには「古河(ふるかわ)」「マツダ」である。選手の顔ぶれもほとんど変わらなかったし、練習も同じ内容だった。
しかし試合になれば、それまでとは一変した状況が自分を包んだ。観客は試合を追うごとに増えていき、チケットが完売する試合も出てきた。
大観衆の中で試合をする快感は何物にも代え難かった。当時は平均して4日に一度のペースで試合があったが、早く試合をしたくてたまらなかった。あの雰囲気を味わいたくてワクワクした。
自分の試合がテレビで中継される。こんなことは初めてだった。埼玉に住む知人に録画してもらったビデオをテープがすり切れるほど見た。自分のプレー写真がカードにもなった。不思議な気分だった。
そういう急激な変化の中で、本当のプロ選手とは何だろう、と土田は自問していた。
サッカーで金をもらっている。それだけであるはずがない。答えは試合にあった。アマチュア時代には考えられなかった大観衆にあった。
「俺たちは見られている。それはグラウンドの外でも同じだ。ファンに与える影響が大きいのだから、自分の行動に責任を持とう」
華やかに見えるプロスポーツの世界。しかし、そこの住人は常に自分を律していなければならない。土田はそう考えるようになった。
(続く)
(文:清尾 淳)