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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第二部 プロサッカー選手として
⑥ 多くの夢を生んだ92年
1992年12月。第72回天皇杯全日本サッカー選手権が開幕した。
ナビスコカップを予選リーグで敗退したレッズは、雪辱を期して勝ち進み、23日、ヴェルディ川崎との準決勝を迎えた。
国立競技場に初めて足を踏み入れた土田尚史は数か月前、大宮サッカー場で味わった何倍もの衝撃を受けた。
4万8千人で埋まったスタンドが両チームのカラー、赤と緑にきれいに分かれ、冬の日差しに映えている。そして地面を震わせる大声援。耳ではなく身体で感じた。
「これが国立か!」
高校時代の担任教師の言葉を思い出した。早稲田大学で陸上をやっていたその先生は、機会があるたびに「おまえら、国立で試合するのは気持ちええで」と話していた。
「あの話は本当だ」
とても冷静ではいられなかった。相手のヴェルディはナビスコカップで優勝しているチーム。これを倒せば天皇杯優勝に大きく近付く。完全に舞い上がった状態で試合スタートしたが、失点、得点を繰り返すうちに落ち着いていった。
試合は2-2のまま延長でも決着がつかず、結局PK戦で敗れた。
多くの夢を生んだ92年が終わった。土田は1月1日、初めて天皇杯の決勝を見に行った。まだ興奮が冷めやらず、余韻に浸っていたのだった。
国立競技場からの帰り、ようやく気持ちを切り替えることができた。
「今年はいける」
ナビスコカップと天皇杯を、初めてプロチームとして戦って、土田はやっていける自信がついた。そして数か月後に始まるJリーグで、優勝を目指す決意が固まった。
まず引っ越しのため、浦和市内の不動産屋に飛び込んだ。担当者が「浦和レッズの選手なんですか!」と喜んでくれた。約1年半前、三菱でプロ契約をして中野のマンションを借りたとき、職業欄に「プロサッカー選手」と書いたら「何ですか、これ?」と言われたことを思い出した。
郷里、学生時代、三菱時代の友人から激励が絶えず、シーズンはオフだったが、気分はすでにJリーグ開幕を迎えていた。
(第二部終わり)
【メモ】
土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。
(文:清尾 淳)