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- サッカー人生ハーフタイム
土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第三部 ケガ、リハビリ、復帰
① 異国の暗闇で
「うわっ!」
土田尚史は顔を押さえてうずくまった。
1996年2月27日、シーズンを前にしたオーストラリア・アデレードキャンプ7日目だった。GKを置いたシュート練習で、この年移籍加入した元フランス代表のDFバジール・ボリ選手のシュートを至近距離からまともに顔面に受けたのだった。
「オーケー、オーケー」
右目を押さえて立ち上がった土田だったが、顔半分が痛くてたまらなかった。おそるおそる手を放して目を開けてみたが、視界が狭くなっていた。右目がまったく見えていないのだ。慌てて右を見ようとした。
「痛え!」
目を動かすと頭の中に痛みが走った。
とても練習を続けられる状態ではなかった。近くの医者に診察を受けたところ、「すぐに入院しなさい」と、市内の病院を紹介された。
眼球内出血。
右目の中にかなりの血がたまっていた。目薬を差されベッドに横になった。
右目だけではなく、両目をふさがれた。左目が開いていると、どうしても何かを見る。物を見ると目が動く。目は片方だけでは動かないから右目も動いてしまう。右目は出血が完全に引くまで少しも動かしてはならなかった。暗闇の中で1日ベッドに横たわるだけの生活が始まったのだ。
両目をふさがれて絶対安静。その上、言葉も通じなくては途方にくれてしまう。通訳としてチームに同行していたスタッフがずっと付き添ってくれて、新聞を読んでもらったり、音楽を聴いたりして時間を潰した。テレビのサッカー中継を聴くこともあった。
「このまま見えなくなったらどうしよう」
初めは不安でたまらなかった。しかし診察のたびにぼんやりと光が入ってくるのを感じて少し気持ちが緩んだ。1日2回、診察のときにはゆっくり目を開けることができた。いきなり元どおりに良くなっていることはなかったが、一番楽しい時間だった。
1週間後、ようやく眼帯が外れた。しかし全快した訳ではなかった。チームはすでに合宿を終えて帰国していたが、土田はまだ帰れなかった。
(続く)
【メモ】
土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。
(文:清尾 淳)