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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第三部 ケガ、リハビリ、復帰

⑦ 再手術の決意

 GKにとってヒザの故障は半ば職業病のようなもの。土田尚史も左のヒザの半月板(ヒザを曲げ伸ばしするときに関節のクッションになる骨)を痛め1993年に手術をした。

 その後、94年、95年とフル回転でプレーするうち、半月板がまたボロボロになってきた。

 96年。開幕前のキャンプで負った右目のケガが治り、練習を再開してから痛みが強くなったが、辛抱していた土田だった。

「出遅れたが、まだ間に合う」

 試合に出たい。

 その気持ちが土田を支え、医師から勧められていた手術を延ばし延ばしにしていたのだった。

 サテライトリーグに出て自覚したものなのか、監督に「田北の邪魔をするな」まがいのことを言われて、張り詰めていた緊張が切れたのか、どちらとも言えない。

 今シーズンの出場が無理と判断したとき、それまで耐えていたものが耐えられなくなった。

「今年のうちにヒザを治して、来年に備えよう」

 土田は再びヒザにメスを入れる決意をし、8月20日、川口市内の病院に入院した。これで96年中にレッズのゴールマウスに立つ可能性は完全に消えた。

 シーズン前の合宿で右目眼球内出血という大ケガを負い、約半年を棒に振った土田だったが、もしあのアクシデントがなかったらどうだったろうか。正GKとして96年の開幕を迎えていたことは想像に難くないが、同時に左ヒザの悪化がもっと早く進んでいたとも考えられる。

 そのとき土田のヒザは、チームの成績はどうなっていたか。時間を巻き戻さない限り誰にもわからない。

 しかし翌97年に18試合、98年は21試合に出場し、立派に復帰を果たしたこと。そして99年、一度も試合出場できずとも、キャプテンとして最後まで降格阻止の戦いの中にいたこと。

 試合出場ゼロの96年が、土田にとってすべてマイナスだったとは言えないだろう。現役引退のきっかけになったのは別のケガだった。それは別の章で触れる。

(第三部終わり)

 

【メモ】

土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。

 

(文:清尾 淳)