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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第四部 レッズの闘将たち

② 攻撃サッカーで人気沸騰

 森孝慈がレッズの初代監督に就任した1992年、レッズはまずまずの成績でシーズンを終えた。

 Jリーグヤマザキナビスコカップでは予選リーグ5位で、惜しくもベスト4入りを逃したが、天皇杯では準決勝に進出。ヴェルディ川崎と2-2でPK戦にもつれ込む死闘を演じて敗れた。守備のリスクを負っても攻撃に人数をかけ、アグレッシブなサッカーを貫いた結果、レッズの人気は沸騰した。

 数年前、森とは職場の上司と部下の関係だった土田尚史は、初めて監督と選手の関係になったが「仕事のときと全然変わらんな」と思った。

 親分肌で、選手に対する気配りを欠かさない。内に秘めた熱さはヒシヒシと感じるが、感情を表に出す人ではなかった。ときどき口から出る広島弁が親しみを感じさせた。

 突然、「おい、バーベキューするぞ」などと言い出すが、それもチームのムードや選手の心中を感じ取ってタイミングを見計らった配慮だった。

 森が日本代表監督を務めていたころの日本代表選手は、その後も毎年のように集まって親睦会を開いているほど結束が固いと聞いていたが、実際に選手として指導を受けてみて土田は「この人ならそうなるのは当たり前かな」と思った。社員時代から、その人柄は知っていたし、結婚の際は仲人も頼んだほどだったが、監督と選手という関係になってみて、ますます森の人間的な魅力を感じた。

93シーズン最終戦後、場内を一周して

サポーターに挨拶する森孝慈監督

 しかし、監督の人間的魅力とチームの成績は必ずしも一致しない。1993年、Jリーグ元年の成績は、第1ステージが3勝15敗、第2ステージが5勝13敗。完全な最下位で、ナビスコカップも予選敗退。前年ベスト4まで進んだ天皇杯も2回戦で姿を消した。

 土田はこの年、途中でヒザの手術をし、試合から離れていた。12月15日、シーズン最終戦が終わり、森は選手たちと一緒に駒場競技場を一周した。その後、監督辞任が伝えられ、土田もショックを受けた。ケガで試合に出られず、何も恩返しできないまま森が辞めてしまうことが、たまらなく残念だった。

(続く)

 

追記:森孝慈氏はその後、他クラブの強化責任者、監督などを務めた後、2001年末からゼネラルマネジャーとしてレッズに復帰。2006年初頭までその任にあたり、多くのタイトルを奪取するまでにチームを強化した。また育成組織の改革にも着手し、後に日本代表にもなる山田直輝、原口元気らを育てるシステムを作った。2011年7月、67歳で永眠。

  

(文:清尾 淳)