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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第四部 レッズの闘将たち
③ 次代の基礎を築いた横山謙三
第1ステージ、第2ステージともに最下位という悔しい成績に終わったJリーグ元年。「3年分ぐらい負けた」の言葉を残し責任を取る形で退任した森孝慈氏の後を受けて、浦和レッズの第2代監督に就任したのは横山謙三氏(以下、敬称略)だった。
それを聞いた土田尚史は、緊張で身体が引き締まった。
「こりゃあ、厳しいぞ」
横山は1943年生まれ。埼玉県の川口高校から立教大学に進む。66年に三菱重工入りし、日本代表GKとして森氏と同じ1968年メキシコ五輪銅メダリストになった。1976年から7年間、三菱の監督として、1978年には史上初の三冠(日本リーグ、天皇杯、JSLカップ)を達成するなど、三菱サッカー部第二期黄金時代を築いた。その後、1988年から1991年まで日本代表監督を務めた。
大学4年生のとき、日本代表Bチームの合宿に参加していた土田は、そこで代表監督の横山に会っている。
横山は、無精ひげを生やしている選手に「剃れ」と一喝した。きちんと手入れしたひげなら構わないが、だらしなく伸びたひげは許されなかった。
「おっかねえ」
レッズの第2代監督、横山謙三氏 |
それが土田の第一印象だった。食事も全員が席に着き、横山が「いただきます」と言うまでは箸をつけてはいけなかった。B代表の土田は直接の指導こそされなかったが、横山の厳格な性格は十分見て取れた。
その横山がレッズの監督になった。
まず練習量が大幅に増えた。厳しい言葉が練習中何度も飛ぶのも当たり前だった。
現役時代は日本のGKの第一人者だったから、土田は直接具体的な指導を受けた。いきなり言われた言葉が
「おまえ、何を今までやってたんだ?」
構えから直された。
(続く)
(文:清尾 淳)