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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第四部 レッズの闘将たち
⑥ 熱い心と信頼関係を大事に
オジェック監督は、その厳しい指導姿勢と共に、熱い心の持ち主だったことでよく知られている。
有名なエピソードは、1995年6月28日、大宮サッカー場で行われた横浜マリノス戦だ。1-1の同点から、延長前半9分、広瀬治がVゴールを決めて勝った。当時、マリノスは首位、レッズは7位だったが、これで第1ステージ10勝10敗となった。
Vゴール勝ちした瞬間、ピッチに入り 選手たちと抱き合ったオジェック監督
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Vゴールを挙げた広瀬にウーベ・バインが抱きつき、選手が駆け寄る。当然、土田も遠いゴールマウスから全力で走っていった。だが、それより早くオジェックはベンチを飛び出し、選手たちと抱き合っていた。
このとき大宮サッカー場を埋めたレッズサポーターと選手、そしてオジェック監督の心は完全に一つになっていた。
この試合からレッズの躍進が始まった。95年の開幕当初は1勝5敗と大きく負け越し、その後は勝ったり負けたりを繰り返しながらどうしても勝率5割の壁を越えられなかったのが、このマリノス戦から6連勝とチーム記録を塗り替え、優勝の可能性が見えるところまで浮上したのだった。
それぞれの選手の役割をはっきりさせ、厳しくチェックする。負けても戦術を変更したり、簡単にメンバーを替えたりしなかった。続けることによって選手は自分たちのサッカーを身につけ、勝つことによってさらに深く理解していった。「レッズのサッカー」という言葉が初めて実感のあるものとして語られた時期だった。
このころ土田にトレード移籍の話が持ち上がっていた。他チームのベテランGKが、若手の抜擢によってベンチに座ることが多くなったので移籍先を探していたのだ。しかしオジェックはわざわざ土田にこう言った。
「おまえがこのチームの正GKだ。何も心配することはない」
そのベテランGKと土田の、どちらの能力が高かったかはわからない。しかし、そのことよりも、ここまで培ってきた信頼関係を大事にする。そういう監督だった。
他方、ギド・ブッフバルトのような大物外国籍選手でも、ベンチに控えさせたこともある。あるいは「生まれる前からFWだった」とまで言ったブラジル人ストライカーのトニーニョをDFで使ったこともある。自分の理想のサッカーをするために妥協をしなかった。
就任2年目の1996年、土田が目にケガをしてレギュラーを田北雄気に譲ったとき、「レギュラー田北」にこだわり、ケガが治った土田を遠ざけようとまでした(本連載「第三部」参照)。それがオジェックのやり方だと理解している土田は、腹立たしくても納得するしかなかった。
(続く)
(文:清尾 淳)