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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第四部 レッズの闘将たち
⑦ また1年で監督交代
1996年、土田尚史はケガのため1試合の出場もなくシーズンを終えた。12月に入って、オジェック監督がチームを離れると聞き、胸中は複雑だった。個人としては好きだったが、今季これほど「正GK田北雄気」にこだわったのだから、来季も自分の試合出場は難しいと思っていたからだ。
翌97年、浦和にやってきたホルスト・ケッペル監督(以下、敬称略)は、不運なところがあった。95年第1ステージと96年に挙げた3位という成績がサポーターの基準になっていたし、サポーターへのメッセージ、選手との人間的ふれあい、メディアへのコメントなど、一つひとつが前任者と比べられたからだ。
1997シーズン、指揮を執ったホルスト・ケッペル監督
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この年、土田はリーグ戦32試合中14試合に出場。初めてライバルの田北と出場を分け合った(田北は18試合に出場)。お互いに切磋琢磨し、チームのムードが悪くなると土田に出番が回ってくる、というサイクルだった。
結局、年間17勝15敗という、1年目としては可もなく不可もない成績を収めながら、ケッペルは解任された。オジェックが2シーズン指揮を執ったのに対し、また1年で監督交代というサイクルに戻ってしまった。
次期監督として、ほとんど間をおかずに発表されたのは、三菱時代からの生え抜きで、レッズになってからずっとコーチとして(育成コーチを含む)指導に当たってきた原博実氏(以下、敬称略)だった。
原は、土田が三菱入りした当時はまだ現役FWとして活躍しており、三菱のプロ一期生でもあった。コーチ時代、特に97年は監督とヘッドコーチが外国人ということもあり、何でも話しやすい兄貴分的な原の存在は貴重だった。土田にとって、しごく順当な監督就任に思えた。
年が明けたオフ中、土田は原から電話で大原グラウンドに呼び出された。
「ツチ、キャプテンやってくれ」
おまえの性格でチームをまとめていってくれ。原は土田にそう頼んだ。
「わかりました」
(続く)
(文:清尾 淳)