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土田尚史「クリア!の声が聞こえる」

第四部 レッズの闘将たち

⑨ すべてを目的のために

 原博実監督の解任から約1か月後、後任のア・デモス監督(以下、敬称略)がやってきた。

「でっけえなあ」

 身長187㎝の土田がそう感じるほど、オランダ人のア・デモスは大柄だった。

ア・デモス監督

短い期間で、できることをやったア・デモス監督

 

 オランダの名門アヤックスでリーグ優勝。ベルギーのKVメヘレンで欧州カップ・ウイナーズ・カップ優勝など、監督としての実績は申し分なかった。

 リハビリから明けて練習に合流した土田はある日、ア・デモスに言われた。

「これからの試合は、アウェイも全部一緒に来てくれ」

 GKとしての自分ではなく、キャプテンとしてだけ必要とされていることに複雑な思いもあったが、自分も降格阻止のために何かをしたいという気持ちの方が強かった。

 ア・デモスは、短い準備期間でJ1残留という目標を達成するために、必要と思われることはすべてやった。食事の時間、服装の統一など、プレー以外でも規律に厳しかった。取材をシャットアウトした合宿も行った。

 トップの練習は20数人で密度濃く行い、同時にサテライトの試合で入れ替えの候補もリストアップした。結局、わずかな得失点差でJ1残留は果たせなかったが、もしア・デモスがシーズンの初めから、あるいは原が解任されてすぐに指揮を執っていたら、どういうチーム作りをしただろうか。

   *    *    *

 土田は2001年から指導者の道を歩み始めた。その中で思ったのは、監督の資質の中で最も大事なものは人間性だということだ。グラウンドの中でも外でも尊敬される人間であることが重要で、戦術や理論はその後に来るものだと感じた。

 また孤独な仕事だから、タフな気持ちも必要だし熱いハートも持っていなければならない。ときには芝居をすることも求められる。

 実質的に選手として過ごした1999年までの8年間で6人の監督を迎えたことになるが、それぞれのプラス面、マイナス面を見てきた。それらは、今後の土田の中で活かされていくことだろう。

(第四部終わり)

 

【メモ】

土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。

 

(文:清尾 淳)