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- サッカー人生ハーフタイム
土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第五部 ゴールキーパーとして
④ 大学から声が掛かった
1984年、奈良県で行われた第39回わかくさ国体。そのサッカー競技少年の部岡山県選抜チームに、GKとして土田尚史の名があった。
「ワシは身体と声がでかいだけじゃけん、すぐに落ちるわい」
しかし土田は最後までチームに残っていた。それどころか2人登録されているGKのうち、レギュラーは土田の方だった。
「あいつの方が、うまいのにのう」
土田は高校時代、自分がうまいと思ったことは一度もなかった。試合で対戦しても相手のGKの方がうまいと感じた。自分は高校からサッカーを始めた人間だという負い目が常にあった。
下手で当然だ。できないことはできない。しかし、できることはやろう。
それが、とにかくがむしゃらにやることと、後ろから仲間に大きな声を掛けることだった。
国体では1回戦で負けた。しかし国体メンバーに入っていたことが、その後の人生をサッカーに費やしていくきっかけとなった。
Jリーグでも土田の大きな声は 有名だったが、それは高校時代から 意識していたことだった (写真は1994年) |
国体開催前の夏。国体選抜チームは、岡山県の倉敷市で合宿していた大阪経済大学サッカー部と練習試合を行った。
試合が終わってしばらくして、大経大の監督から「うちに来ないか」と誘いが来た。
「大学までサッカーで行けるんか!」
高校を卒業したら、サッカーに力を入れている企業に就職することは考えていた。たとえば倉敷市には三菱自動車の水島工場があり、そのサッカー部は県リーグの上位と中国リーグを行ったり来たりする強豪だった。
しかし思いもかけぬ誘いを受け、土田は大阪経済大学に進学することにした。ちなみに国体選抜の仲間だったもう一人のGKは、中央大学に進み、その後三菱自動車水島に入った。
大経大は当時関西リーグの2部、練習に顔を出してみて土田は思った。
「3年前と似とるのう」
新入部員は9人いたが、いずれもサッカーでは知られた高校から来ていた。無名校出身は土田一人だった。
「まあ、ええわい。毎度のことじゃ」
コンプレックスを感じないわけでもなかったが、そのことには慣れている土田だった。
(続く)
(文:清尾 淳)