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- サッカー人生ハーフタイム
土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第五部 ゴールキーパーとして
⑥ 松永成立の存在
1987年。大学3年生のとき、土田尚史は関西学生選抜に選ばれ、その後4年生のときは日本代表Bチームに入るなど、同年代ではトップクラスの選手として階段を上がっていった。
中でも一番刺激を受けたのは大学3年生の夏休み、日産自動車サッカー部(のち横浜F・マリノス)の練習に参加したときだった。
OBの紹介で練習に参加した土田は初めてと言っていいほど大きなショックを受けた。
「なんじゃ、こりゃ。大学とはまるでレベルが違うぞ」
スピード、激しさ、テクニック、お互いへの厳しさ…。すべてにわたって、これまで土田が歩んできたサッカーの世界とは質的に違っていた。
「今の自分には無理や。でも、いつかはこれに追いついたる」
当時の日産は、金田喜稔を始め、木村和司、水沼貴史、柱谷幸一、田中真二ら、数多くの日本代表選手を擁し、日の出の勢いだった。1988年、89年に日本リーグ、天皇杯、JSLカップの国内三大タイトルを2年連続獲得する前年だった。
そんな中、土田が最も影響を受けたのは、日本代表GKの松永成立だった。
どこがどううまいと言えない。当たり前のことを確実にやっていた。練習量は多かった。一番にグラウンドに来て、最後まで残って練習していた。
「日本代表選手はここまでやるか」
土田は松永にだんだん心酔していった。
翌4年生の夏もやはり日産の練習に参加した。そのまま行けば、卒業後に日産入りする流れだった。しかし松永の存在が土田の進路を変えた。
「俺もいつかはB代表じゃなく、正真正銘の日本代表になりたい。代表になるには松永さんを抜かんといかん。そのためには日本リーグで試合に出んと話にならん。じゃがゴールマウスはチームに一つしかない」
日産に入って松永とレギュラー争いをするよりも、違うチームで勝負して松永を抜くことの方を選んだ。
こうして土田は、大学4年生のときに声を掛けてくれたもう一つのチーム、三菱に入ることを決めたのだった。
(続く)
(文:清尾 淳)