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Weps うち明け話 #1072

600号を祝ってくれる人(2021年3月12日)

 

 ずっと以前は、埼玉縣信用金庫(さいしん)浦和支店が目印だった。

 旧中山道を北浦和方面に歩いて行って、さいしん浦和支店を過ぎて一つ目の角を右へ曲がる。

 浦和ロイヤルパインズホテルができてからは、ホテルの向かいの路地を入る、と説明してきた。浦和駅からならもっと近い道があるのだが、初めての人にはパインズホテルをランドマークにした方がわかりやすい。

 旧中山道を入って70mくらい行ったところの左側。

「ばすぼーい」はそこにある。

 

 いつ誕生したのか詳細は知らない。僕が初めて、その店に行ったのは1995年だった。

 そのころは冒頭の案内とは違う場所で、旧中山道と路地の角、さいしん浦和支店の隣にあった。

 カウンターしかなく、混んでいたので入口にあった予備の丸イスに座って飲んだ記憶がある。

 客は、そのころ僕がまだ親しくなかったレッズのスタッフが多かった。

 その後、何回か行ったが、いつも混んでいた。カウンターに座れて食べたものがすごくうまかったのを覚えている。何を食べたんだかは覚えていない。ただ、うまかったという記憶だけはある。それと居心地が良い、という記憶。

 

 居心地が良いので行きたいけど、いつも混んでいるので、自分のような新参者が居座って常連さんの邪魔をしてはいけないのかな、という葛藤を抱えていたと思う。そのころ僕は浦和に住み始めて15年目だったが、まだ常連扱いしてくれるような店がなかった。

 だが、それからしばらくして、ばすぼーいが現在の場所に移転した。テーブル席もあり、たぶん収容人数(スタジアムかよ)は3倍くらいになったのではないかと思う。それで、僕もたびたび行くようになった。

 つまり駒場競技場時代は、なかなかレッズの試合を見に行けなかったが、改修されて2倍のキャパを持つ浦和駒場スタジアムになったので、シーズンチケットを入手でき、毎回行けるようになったようなものだ。「清尾さん、いらっしゃい」と呼んでくれる、浦和で初めての店ができたときの楽しさをわかってもらえるだろうか。

 

 その、ばすぼーいのマスター、星野敏男さんが昨日亡くなった。

 昨年は数えるほどしか行けなかったけど、お加減が良くなさそうなのは見て取れた。病院にも行っているが、なかなか改善しないということで、大変そうだった。

 

 星野さんは居酒屋のご主人らしく話し好きだった。新聞やテレビで世間の情報を仕入れているから、たぶんお客から話し掛けられたときに、たいていのテーマを振られても対応できたのではないかと思う。

 ただし、自分の考えをはっきり言う人なので、話すテーマは相手に合わせても、意見を相手に合わせることはしなかった。僕もよく言い合いになった。言い合い、というのは、続けているとだんだん気持ちが毛羽立ってくるから好きではないのだが、星野さんとの言い合いは、不思議と心がざらつかなかった。たぶん、お互いのことが嫌いで言い合っているのではなく、意見が違うだけだ、ということを知っていたからだと思う。星野さんは僕のことを心から歓迎してくれていたし、僕も星野さんがいて、うまいものが食べられるから店に行ったのだ。

 

 たいていの人は「マスター」「敏ちゃん」「敏男さん」と呼んでいた。しかし僕は、「マスター」と呼ぶと、何だか客と店主という関係そのものという感じがして抵抗があった。さりとて年上の人を「敏ちゃん」と呼ぶのは何だかはばかられた。年齢? 僕と5歳違いの69歳だった。

 そんなわけで僕が話し掛けるときは「星野さん」だった。

 そっちの方がよっぽど他人行儀に聞こえる?

 そうね。そうかもしれない。でもいろいろ考えて、これが一番自然に思えたのだ。そして、実は一番オリジナリティーがあったのではないかと思っている。あまりそう呼んでいる人はいなかったはずだから。

 

 あの辺の地理に詳しいレッズのファン・サポーターならわかるだろう。

 その店って、レッドボルテージがあったあたり?

 そう。浦和駅に移転する前のボルテージ、ということはレッズのクラブ事務所が近くにあったのだ。

 かつて、昼間のばすぼーいはレッズの社員食堂だった。

 夜の営業時間には、いろんな人が来た。レッズのスタッフはもちろん、サポーターも少なくなかった。また星野さんは地元生まれで浦和市立高校のサッカー部だったから知り合いが多く、そういうお客さんも多かった。

 何にしてもレッズがかなりの人の共通項ではあった。

 だから星野さんのところには、かなりの情報が集まった。毎日のように生の情報を耳にしていれば、いろんなことに関して一家言できてもおかしくはない。

 先ほど「言い合い」もしたと書いたが、その多くはレッズに関してだった。そして星野さんとレッズのことを言い合っても心がざらつかない理由は、星野さんがレッズを大好きだという前提がわかっていたからだ。個々のスタッフ、個々の選手についてはいろいろ思うところがあったはず。クラブのやり方についても苦言を持っていた。だが、ホームタウンを含めた浦和レッズという存在、いや浦和レッズという概念と言ってもいい。そこへの愛情を疑ったことはない。その根底があっての言い合いは、言わばクラブの方針をめぐって役員同士が議論するようなものだった。だから僕も非常に参考になった。

 

 北浦和に仕事場を持つようになってから、僕がばすぼーいに行く回数は減った。

 それでもひと仕事終えた後、たとえばホーム3連戦とかの後、あるいはキャンプの後などに顔を出したとき、安らぐことと言ったらなかった。癒やされる、という言葉がピッタリだった。何か月ぶりに行ったあとは、その感覚を味わいたくて必ず2日後くらいにまた行ったりした。

 今年になって一度も行けなかったのが悔やまれる。

 

 星野さん。3月10日の横浜FC戦、MDPは600号になりました。

 お礼を言わせてください。600号に達するまで僕がMDPに関われたのは、ばすぼーいの、いえ星野さんのおかげもあります。口癖のように「誰がなんと言おうが、俺は清尾さんの味方だからさ」と言ってくれたことが、どれだけ前を向く気持ちになれたことか。

 以前だったらきっと、ばすぼーいに行って、「紙で発行していれば、何か特集をやったんでしょうが、Web発信ではそんな企画さえ持ち上がりませんでした。寂しいもんですよ」と愚痴の一つもこぼしたでしょう。きっと星野さんは、そうは言っても僕が心の中では600号まで来たことを自慢に思っていると見抜いて、「じゃあ、600号のお祝い」と乾杯してくれたでしょうね。その言葉は聞けませんでしたが、星野さんの笑顔ははっきりと想像できています。ありがとうございます。

 一休みしたら、そちらで店を開いてください。僕が行くとき、MDPの700号か800号をお土産にできれば最高なんですがね。

 

 長い間、ありがとうございました。

 合掌

 

(文:清尾 淳)