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Weps うち明け話 #1120

天皇杯優勝で感じたこと(2021年12月28日)

 

 2021年の天皇杯を振り返る。

 

 6月9日の2回戦と7月7日の3回戦は浦和駒場スタジアムで行われた。

 レッズの場合、天皇杯の初戦や第2戦の会場が駒場になるのは珍しくはない。ただ今季は埼玉スタジアムが東京五輪でレッズが使えない時期があったため、リーグ戦のホームゲームも駒場で行われることになっていた。8月14日の鳥栖戦、25日の広島戦だ。

 さらにルヴァンカップでも勝ち進んだため、6月13日のプレーオフステージ第2戦、9月1日の準々決勝第1戦も駒場で行われた。駒場でのホームゲームは11年ぶり、リーグ戦では12年ぶりとなる。ただ天皇杯ではときどき使われていたため、ホームゲームが「11年ぶり」と聞いて意外に感じた人も多かったのではないか。

 

 天皇杯の初戦はたいていが水曜日のナイターになる。そしてカテゴリーが一つか二つ下のチームが相手になることがほとんど。もちろんシーズンチケットの試合ではない。近年の入場者はだいたい5千人台、多くて6千人台だった。そして相手との力関係もあって、これまでの天皇杯では、緊張感や闘争心がホームゲームのそれを上回ることはなかった。

 

 その雰囲気が、ルヴァンカップやリーグ戦の駒場でのホームゲームに持ち込まれること、さらに駒場を知らない新加入選手たちに伝わることが懸念された。今季の天皇杯初戦では、いつも埼スタのスタンドに張られている「We are Diamonds」の歌詞ダンマクが駒場のバックスタンド2階のフェンスに張られたのは、ここがレッズのホームスタジアムなんだ、ということを選手に認識させるためだっただろう。

 その4日後、6月13日のルヴァン神戸戦ではさらにスタンドに横断幕などが張り巡らされ、ホームの雰囲気を強めた。神戸に2-2と詰め寄られ、あと1点で大会から敗退するところを、土俵際で踏みとどまった試合だった。

 

 ルヴァンの2試合は、勝ち抜けに寄与するドロー。また駒場で行われたJリーグの鳥栖戦、広島戦は、2試合とも中断明けで夏の移籍選手が加わって選手層は厚くなったもののまだフィットしきれなかった時期の試合だが、堅い守りで勝点3を積み上げた。もちろん駒場で行われた天皇杯も、2回戦、3回戦を勝利した。どちらも主導権を握りながらなかなか点が入らないという「ありがち」な展開だったが、焦れることなく試合を進め、80分(富山戦)、87分(相模原戦)に決勝ゴールを挙げた。

 

 選手たちは駒場での試合について「埼スタとは違うがホームの雰囲気がある」「陸上トラックがあってもファン・サポーターとの距離感が近い」と異口同音に語っていた。

 ホームゲームをホームらしくするために駒場の雰囲気を例年とは変えたことが、3大会すべてに好影響があったことは間違いないだろう。

 

 子どものころ、僕が住んでいた石川県ではテレビでサッカーの生中継を見ることが少なかった。ただ元日は天皇杯の決勝を見ていた記憶がある。そのためか、昔から歴史と権威をすごく感じる大会であることは間違いない。

 年によってレギュレーションが変わるが、Jリーグが終了する前にベスト4までが決まっており、Jリーグ閉幕後は準決勝と決勝だけという今季の形は、悪くないという気がする。決勝が元日かどうかで雰囲気は大きく違うが、12月中の試合が20日までに終わって年末の忙しい時期にかからなければ、どちらでもいいと思う。

 ACLの出場を目標にするクラブが増えた現在、Jリーグの順位では届かなくても天皇杯優勝で出場権を得られるということでモチベーションに関しては、ルヴァンカップより高くなっているかもしれない。またJリーグ閉幕後に天皇杯で勝ち残っているところは、このチームで戦う最後の試合、になることが多く、そういう意味でも力が入る。レッズにとって今季の天皇杯はまさにそういう位置付けで優勝までたどり着いた。

 

 ところで決勝に進むといつも話題になるのが、何度目の優勝なのか、ということだ。

 2005年の第85回大会で優勝したとき、NHKの中継で「浦和レッズ5度目の天皇杯優勝!」というテロップが画面に出てびっくりしたのを覚えている。それが前身の三菱サッカー部時代の優勝を含んだ数だということに気づくまで、それほど時間はかからなかったが、なるほどそういうカウントの仕方になるのか、と思った。

 日本サッカー協会への登録は、1992年に三菱自動車工業サッカー部から三菱浦和フットボールクラブ(その後、浦和レッドダイヤモンズ)と名称が替わった。それは1990年に三菱重工業サッカー部から三菱自動車工業サッカー部に替わったときも同じだ。たぶん、その前の「新三菱重工業サッカー部」、さらに「新三菱重工業神戸サッカー部」、そして1950年の「中日本重工業サッカー部」創部から綿々と受け継がれている(中日本重工業サッカー部が日本サッカー協会に登録されていたかどうかは不明、調べていない)。

 だから協会の記録では今回の浦和レッズの天皇杯優勝が8回目で間違いないのだ。

 

 それでも違和感はある。

浦和レッズになってからのファン・サポーターが多くを占めており、タイトルを獲れずJ2降格まで経験した90年代を越えて、2003年にようやくJリーグカップで初戴冠。その後Jリーグチャンピオンに届きそうで届かない2シーズンを経て、初めて立った元日国立の表彰台(天皇杯の表彰台はJリーグカップのそれより高い位置にあった)。

 そう感慨にふけっているところへ「5度目の優勝!」と言われたら、「いや俺ら、その4回知らねえし」となるのも無理はない。

 今回のMDP天皇杯決勝特別号には、そのことに触れる文言が入っている。

「※浦和レッズは前身の三菱重工業サッカー部時代に天皇杯で優勝4回、準優勝3回の実績がありますが、本誌内における優勝回数などの記述はすべて1992年の以降のものとなっています」

 三菱時代の優勝も浦和レッズの実績として含めた上で、MDP内での回数に関する考え方を示したものだ。

 

 今後、天皇杯の優勝回数を言うときに

「8回目の優勝(三菱重工業サッカー部時代の4回を含む)」「4回目の優勝(三菱重工業サッカー部時代を含めて8回)」のどちらかを使うことになるのではないか。どちらかと言えば、僕は後者が良いように思うが、これはクラブが決めることだ。先人たちの実績へのリスペクトを忘れなければいいと思う。

 

 そして、できることなら来年、再来年の優勝を実現させたい。

 そうなればJリーグクラブとしての優勝回数が鹿島の5回を抜いて最多になるだけでなく、通算優勝回数も慶應大学関連クラブの通算9回を抜く。さらには前人未到の天皇杯3連覇、ということになるのだ。

その暁には三菱重工時代の監督や選手と共に「天皇杯、Jクラブ最多優勝、通算最多優勝、三連覇達成」を祝う会を盛大に行いたい。

 

 そんな夢も描かせてくれる今年の天皇杯優勝だった。

 

(文:清尾 淳)