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Weps うち明け話 #1200
熾火(2024年8月6日)
パリ五輪は、メダル獲得の歓喜と判定への疑問が連日報道されているが、サッカーは、残念ながら男女共にメダルに届かないまま敗退が決まった。
日本国民としてあるいはサッカーファンとして試合を見るのと、レッズの選手が加わっている試合を応援するのとでは次元が違う。これは僕だけではないだろう。
僕にとって、小学2年生のときに行われた、前の東京五輪のインパクトはとてつもなく大きかった。それまで見たことがある、日本人と外国人が対戦するスポーツと言えば、ボクシングのタイトルマッチ(ファイティング原田と海老原博幸)か、さもなければプロレスしかなかったのだ。
日本人選手が国際試合で躍動する姿を見た翌日は、学校で競って真似をした。いや五輪が閉幕してからも、その年の休み時間の遊びと言えば「五輪ごっこ」だった。
1968年のメキシコ大会の後は、放課後の遊びがソフトボールからサッカーに替わっただけでなく、市内で初めて小学校対抗のサッカー大会が開催された。もちろん「男子サッカー銅メダル」の余韻だ。
僕の五輪熱は「三つ子の魂百まで」のことわざどおり、今でも高いと思うが、さすがに閉会後いつまでも余韻に浸っていることはない。パラリンピックのテレビ中継が増えているので、そちらを見ているうちに五輪熱はクールダウンしていくのかもしれない。
ただ、2016年リオ大会の後だけは、余韻というのとはちょっと違うが、「五輪後」をしばらくひきずっていた。それは興梠慎三の不振だ。オーバーエイジ枠でリオ五輪日本代表チームに招集された興梠は、五輪のため4試合を欠場し、久しぶりに赤いユニフォームでプレーしたのは8月20日だったが、そこからJリーグカップを含めた5試合で無得点。点が取れないだけではなく、間違いなく精彩を欠いていた。
「こんな慎三は初めて見た」と思った。
正直、2~3試合プレーを見て、「燃え尽き症候群」という言葉も頭に浮かんだ。
だが、興梠慎三はそういうことから遠い選手だと思っていた。取材陣が熱くなって囲んでも、淡々と対応。大言壮語はしないが、必要以上の謙遜もしない。そして結果を出し続ける。そんな選手にスランプはあっても、燃え尽きることはないと思っていた。
このシーズンも、五輪でチームを離れる直前の7月19日まで、リーグ戦21試合で10ゴールという好調ぶりを見せていた。長距離移動も含めて五輪の疲労がまだ残っているのだろう。すぐに以前どおりの活躍をしてくれるに違いない。そう考えていた。
だから本人の口から「燃え尽き症候群です」と聞かされたときは二重のショックだった。一つは、前述した僕の「興梠像」がまったく的外れで、初めての世界大会に彼がどれほどの思いで臨んでいたか、想像できていなかったことが情けなかった。
二つ目は、年間勝ち点1位を掲げたチームの目標がどうなるのか、ということ。1stステージ終盤に3連敗を喫して首位に離された状態から、シーズン後半に浮上していくため、興梠の力は欠かせないものだった。
興梠は燃え尽きてはいなかった。一度熾きた木炭は、消えたように見えても風を送ると再び真っ赤になる。
9月17日のFC東京戦で、試合としては公式戦11試合ぶりに、五輪から復帰してから6試合目にゴールを挙げると、次の広島戦で連続ゴール。またルヴァンカップ準決勝第2戦の東京戦ではハットトリックを達成して、その後の優勝へとつなげた。最終的なリーグ戦のゴールは14点で、その時点で本人の年間最多だった。
五輪から戻って、思うようなプレーができなかった時期は苦しかったと思う。それが「燃え尽き」ではなく実は「熾火」状態だったとしても、自身が経験したことのない状態に直面して、悩んだはずだ。
そこから5試合で自らを再起動した強さに感心するし感謝もする。もしかしたら、熾火に風を送り、燃え上がるまでの時間を早めたのは、レッズサポーターの応援ではなかったか、と思っている。
あのときと今は違う。
昨季1シーズン戦って、自分の変化を認識せざるをえなかったのは辛かっただろうし、引退という決断をするのは悔しかったと思う。僕は興梠に「大谷翔平になってくれ」とは思わないが、あと数年かけてJ1通算最多得点者に名前を刻んで欲しいとは、昨季札幌から戻ってきたときに願っていた。
しかし本人が決意を表明した今、無責任に「まだ、やれるだろ」とは言えない。
だけど。
まだ燃え尽きてはいないだろう。明日8月7日(柏戦)のMDPにも書いたが、今季の残り4か月間で、興梠の中の熾火を再び熱くして、やって欲しいことがある。
この時点でも、浦和レッズの歴史に深く名が刻まれる選手であることは間違いないが、さらにかけがえのない功績を残して欲しいのだ。
もう、ひと花。その咲かせ方はいろいろある。
(文:清尾 淳)