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Weps うち明け話 #1227
自分なりの記念日(2025年5月28日)
いま僕は68歳。それなりに老けた顔つきと体型だが、服装がやや若めなのか、まだ電車やバスで席を譲られたことはない。コロナ禍のときはワクチン優先接種のギリギリ高齢者の範囲だったが、あれから4年経っているから、まだ若造の範疇ではあるだろうが、しっかり高齢者の仲間には入れてもらっていると思う。
そのことについては、それほど感慨もないし悲しくもない。生き続けていれば、誰もが通る道だ。
ただ、ここまで生きてこられたことについては、もう亡くなってしまった両親はもちろん、いろいろな人に感謝している。また、多くはないが、生命の危険を感じた場面も何度かあったことを思えば、運にも恵まれていたと思う。
鬼籍に入ってしまった同年代の友人や、僕よりはるかに若くして亡くなったサポーターも少なくない中、彼ら彼女らの思いや未達成の目標も背負って生きていかなくてはならないという気持ちもある。
別に誕生日でもない今日、こんなことを思うのには理由がある。
Jリーグがスタートしたのは1993年だが、Jリーグ主催で初の公式大会、Jリーグヤマザキナビスコカップはその前年に行われた。その1992年から数えて今年は34年目。僕の年齢のちょうど半分だ。今年で人生の半分、レッズに関わってきたことになるのか、というのは年が明けてずっと思っていたことだ。
僕がレッズに関わったのは、1990年に飛び込んでいった浦和にプロサッカーを招致する活動がきっかけだが、もっと深く、濃厚で、はっきりしたレッズとの関係は、もちろん浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム(MDP)だ。
1992年9月5日、ナビスコカップ予選リーグ第1節の三菱浦和フットボールクラブ対東日本JR古河サッカークラブが、大宮サッカー場で行われた際に発行されたMDPが創刊号で、その編集を埼玉新聞社が請け負い、社内で「とりあえず」僕が担当したことがスタートだったのだが翌年からそれが正式な業務になり、2005年にレッズから埼玉新聞社への委託が終わったのに伴い個人で編集を請け負うようになり、2021年からはライターとして関わっている。
今日、2025年5月28日のC大阪戦で発行されるMDPが700号となる。自分の人生の半分、レッズと関わってきたことをあらためて感慨深く受け止めている日なので、この原稿を書かせてもらっている。
これまで100号単位の節目を6回迎えてきたわけで、1997年の100号のときには「ホームゲーム100試合記念」として製作された、それまで在籍した選手全員の顔写真のポスターが付録についた。
2002年の200号と2007年の300号には記念ステッカーがついた。MDP200号の表紙写真は、当時背番号20だった坪井慶介に200番のユニフォームを着せて撮影した。
400号は2011年の最終節だった。まだJ1残留が完全には確定していなかったので、400号記念の意識も遊ぶ余裕もなく、付録もなければ特集記事もなかった。ただ、試合後に行ったサポーターの打ち上げの場で「祝・MDP400号」と書いた横断幕を用意してくれていたのがありがたかった。
500号は2016年7月17日だったが、その号にMDPの歴史などを特集し、その次の501号に1号から500号まで、増刊号や特別号も含めてMDPの表紙を全部掲載する特集を掲載した。年ごとにレッズの総括的なリポートを併載したので、コンパクトな資料になったと思う。64ページという、MDP最大の分厚さになった。この試合(8月6日、湘南戦)では、クラブがMDP500冊の表紙をバナーにして南広場のフェンスに張り出してくれたので、せっかくだからその前でMDP500号の歴史を辻講釈した。30分の話を3回ぐらいやったと思う。
600号は2021年3月で、MDPはWeb版になっていたので、何もなかった。コロナ禍が2シーズン目で、はたして本来のMDPが復活する日は来るのか、という思いが強かったころだ。
そして今日が700号。今回も特に付録や特集はない。次号にMDPに関する記事を書いた。
これから、より面白く、サポーターが試合を闘うためのプラスになるようなMDP製作のために努力していくこと、そしてMDP以外の分野でもレッズのために、書くこと、行動することを誓って、僕なりの700号記念としたい。

MDP200号 レプリカユニフォームを作ってもらいました。背中ももちろん「200」

MDP300号記念ステッカー
(文:清尾 淳)

