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- サッカー人生ハーフタイム
土田尚史「クリア!の声が聞こえる」
第五部 ゴールキーパーとして
① サッカーで推薦願書「経験なし」
1981年12月。高校進学を控えた中学3年生の土田尚史は迷っていた。
岡山理大附属高校。その体育コースに入学願書を出すことは決まっていた。そこならスポーツが得意な土田は中学校から推薦が受けられ、入学試験がかなり有利になる。
問題は、入学してから活動するスポーツを何にするか。願書には希望するクラブ名を書かなければならなかったが、土田は何でもできる一方、群を抜いて得意なものがこれと言ってなかった。
中学校では部に入っておらず、ずっと続けてきたものといえば剣道だったが、個人競技はサボれないので嫌だった。土田はスポーツをやりたくて高校に行くのではなく、高校に行く手段としてスポーツを利用する気だったのだ。
Jリーグスタート時から レギュラーとして出場した土田。 そのGK人生は どうやって始まったのか。 |
「おまえは背が高いんじゃけん、バスケットがええんじゃないか」
中学校の進路担当の先生が言った。バスケットボールも嫌いではなかった。1年上の先輩が岡山理大附属高にいたので、電話で聞いてみた。
「先生はバスケやれ、言うんじゃけど」
「やめ。やめ。死ぬほどしごかれるぞ」
聞くと岡山理大附属高のバスケットボール部は、中国地方でも強豪に数えられるほどだった。
「ほいじゃあ、何がええですかね」
「サッカーに決まっとろうが」
先輩はサッカー部に入っていた。土田は先輩の勧めで、入学願書に「サッカー」と書いた。下にそのスポーツに関する経歴を書く欄があった。
経歴――「なし」
土田の通っていた中学校にはサッカー部がなく、サッカーは体育の授業でやっただけだった。だが「経歴なし」でもサッカーの希望者は少ないはずだから、落とされる心配はなかった。岡山理大附属高のサッカー部は当時強くなかったのだ。
推薦入学の試験は翌年2月1日。くしくも土田の15歳の誕生日だった。
(続く)
【メモ】土田尚史(つちだ・ひさし)1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大附属高からサッカーを始め、ゴールキーパーに。大阪経済大時代には日本代表にも選ばれた(Aマッチ出場はなし)。89年三菱入りし、92年の浦和レッズ発足時には正GKとなった。J1リーグ通算134試合出場。2000年を最後に現役を引退し、2018年までコーチ、またはGKコーチを務めた。2019年にクラブスタッフとなり、11月、チーム強化の責任者となるスポーツ・ダイレクターに就任した。
(文:清尾 淳)