Weps うち明け話 文:清尾 淳

#872

報告

 今年も7月3日がやってきた。
 このコラムの生みの親、鶴川健さんが亡くなったのが、2011年の7月3日だ(#301参照)。

 生前の鶴川さんは、仕事で浦和レッズに対して営業的にも多大なる貢献をしたと思う。それだけでなく大のレッズ好きであり、なおかつアイデアマンだったから、自分が担当する、あるいは知り合いのパートナーに対して、いろいろな企画を提案し、また実現してきた。鶴川さんが手がけたノベルティーグッズの数は非常に多いはずだ。誰かと軽く話したことをヒントに、「こんなの作ってみました」とすぐにやってしまう行動力があった。
 一方、深く付き合っているだけにクラブの欠点、短所もわかっており、僕と飲むときは半分ぐらいクラブへの批判話になったと記憶している。またクラブスタッフに対しても正面からそういうことをぶつけることも少なくなかった。
 
 もし、鶴川さんがご存命だったら、と思うことがある。

 残留争いをしていた、2011シーズンの後半はどんなことをおっしゃっただろう。
 あるいは、2013シーズンに展開された2ステージ制反対の議論の際は、どういう暗躍(笑)をされただろう。
 その年の秋、ナビスコ決勝でのいわゆる「官製コレオ」問題では、Jリーグに怒鳴り込んでいたかもしれない。
 昨季の差別的横断幕事件には本当に心を痛めただろうし、その後のスタジアムの変化や応援の再生についても深い関心を寄せ、何か自分にできることはないか、と考える毎日だったと思う。

 本当に、仕事をバリバリやりながらも、仕事以外でも浦和レッズを全力で応援してくれた人だった。
 いま、ようやく、ちょっぴり胸を張って報告できる。

 鶴川さん、8年ぶりにタイトルを獲りました。
 あなたのことだから、「1stステージ優勝がナンボのものですか!」と言いながらも、しっかりお祝いしていたはずです。勝手に「17戦無敗!」とかいうTシャツとか作って着ていたんじゃないですか。
 今週は、居酒屋「ばすぼーい」で飲みながら、2ndステージに向けて課題を語り合いながら、いつか年間優勝したときにどうするか、という夢を語り合っていたでしょう。クラブワールドカップへの出場や、来季のACL、そして「今度こそ強いレッズを継続させるために」というところへ話は広がっていったでしょう。

 この優勝、あなたと乾杯したかった。本当に。
EXTRA
 鶴川さんが最も最も多く通ったと思われる、レッドボルテージ近くの居酒屋「ばすぼーい」で、今夜も鶴川さんの「一味」が集まり「偲ぶ会」を開く。今年は6月20日の表彰式の写真と、1st最終節のMDPを飾ろう。

(2015年7月3日)

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