Weps うち明け話 文:清尾 淳

#898

もう描いていただけない

 僕は子どものころ、たぶん友人の中で最も漫画好きだった。毎日のように漫画を読んでいたが、たくさんの漫画雑誌を買ってもらえたわけではなく、月ぎめで配達してもらっていた月刊誌の「少年画報」を、次の号が届くまで何度も読み返していた。新しい号をひととおり4~5回読むと、数か月前の号からお気に入りの作品を順番に読み返していたので、古くなったものも捨てず、枕もとには何冊もの雑誌が積まれていた。

 当時(今でもだが)、僕の家の近くに本屋はなく、だから毎月配達してもらっていたのだが、市街地へ母の買い物に付き合ったときなど、たまに漫画雑誌を買ってもらえた。許可が出るのは月刊誌よりも安い週刊誌で(50円くらいだったと思う)、そのころ、男児向け漫画週刊誌としては少年マガジン、少年サンデー、少年キングの三誌が発行されていた。「ジャンプ」「チャンピオン」はもう少し後だった。それらの週刊誌も長く僕の枕もとに置かれ、枕もとから撤去されたあとも物置に保存していた。

 そんな読み方だから、たまに友人から漫画雑誌を借りて読んでも、「少年画報」以外に連載された漫画は続けて読めず、ストーリーが楽しめなかったので、子ども心に野望を抱いていた。
「いつか、コミックで全巻読んでやる」

 連載数回(十数回?)分がまとめて読めるコミックスは比較的高価なので買ってもらったことがなく、たまに食堂や何かの待合室で見かけるだけだった。いつか、自分でお金を自由に使えるようになったら、そうしようという夢を持っていたのだが、中でも一番まとめて読みたいと思っていたのが「秘密探偵JA」だった。
 なぜかというと、少年キングに連載されていた望月三起也さんの「秘密探偵JA」は、他のスポーツヒーローもの、ロボットもの、忍者ものなどの漫画とは一線を画した内容で、僕は大好きだったのだが、なぜかテレビアニメにならなかった。リアルな悪人や銃器が出てきたので、PTAのウケが良くなかったのかもしれない。なので、「JA」に関して一つのストーリーを全部理解したことがなかった。
 でも、そのリアルさが好きだった。たまたま読んだ回だけでも十分に楽しめた。
 たとえば自動拳銃というのは、弾丸が入った弾倉がないと撃てない、というのはテレビで知っていたが、薬室に弾丸が入っていると弾倉を抜いても一発は撃てるというのを理解したのは「JA」でだった。弾倉を装填しても遊底をスライドさせて初弾を薬室に送り込まないと撃てない、ということも知った。 

 大学に入って一人暮らしを始めると漫画に関する親の「規制」もなくなり、アルバイトもして多少お金に余裕もできたので、待望のコミックスを買うようになった。1巻、2巻ずつではなく全話完結したものを一気に買って読むのが好きだから、それほどしょっちゅう買うのは無理で、3~4か月に一度だった。真っ先に買ったかどうかは記憶にないが、三起也さんの作品は多かった。「秘密探偵JA」「ケネディ騎士団(ナイツ)」「ジャパッシュ」「突撃ラーメン」「最前線」「夜明けのマッキー」…。新刊だけではなく古本屋でも全巻そろっているのを見つけて買ったと思う。
「ワイルド7」は僕が大学生になっても連載中だったから、1話が終わるとコミックスをまとめて買った。たまたま入った喫茶店などに少年キングが置いてあっても、中途半端に読むのが嫌でワイルド7だけは飛ばした。どうやって1話が完結したのを知るかというと、本屋に行って一番新しいシリーズ最新刊の巻末の下の方だけをそっと開く。欄外に「以下、次号」とあったら、まだかあ、とがっかりして2~3か月待つ、というわけだ。「ワイルド7」は最初は2巻で完結していたが、だんだん1話が長くなってきたから、最後の「魔像の十字路」が終わるまでずいぶん待った記憶がある。
 長々と書いてきたが、とにかく漫画好きの僕の中でも三起也さんの作品はどれも大好きだったのだ。

 そんな三起也さんに直接お会いする機会ができたのは、レッズのMDPを僕が担当していればこそ、だった。昔から三菱重工サッカー部の大ファンで、当時の選手たち、すなわちレッズの幹部たちとも親交のあった三起也さんは、たびたびレッズの試合観戦にもいらしており、その縁でMDPに絵とコラムを提供してくれることになったのだ。
 三起也さんのサッカーマガジンでの連載は読んでいたが、まさか自分が編集しているMDPでそういうものが実現するとは。あの望月三起也と仕事上のつきあいができるなんて、「いやあ、ホント、うれしかったですネェ。ワタシ、大ファンだったのですよ」というやつだ。

 2002年。Jリーグが始まって10年も経つと、浦和レッズの前身が三菱だということはみんな知っていても、その色合いは薄れてくる。しかし、かつての選手たちがどんなツワモノだったか、サポーターにぜひ知っておいてもらいたい、という三起也さんの希望で、最初は横山健三さん、落合弘さん、森孝慈さんらの現役時代の話からスタートした。そういう人たちの努力や心意気は、現在の選手たちに必要なことでもあるはず、ということで「優勝へのタイム魔神(マシン)」というタイトルで、不定期の連載が始まった。
 最初は僕の方から「そろそろ、どうですか」と打診して、しばらくすると三起也さんから「明日の夜にはできるから取りに来て」と連絡があるという感じで、横浜のご自宅にお邪魔して作品を拝見し、原稿の文字などを確認してから、サッカー談義、三菱談義、レッズ談義が1時間、2時間続いた。ときどきは、ワイルド7の話もお聞きした。

 連載は、タイトルをそのままで、内容がレッズの現状とリンクさせたものになり、掲載頻度が増えていった。2004年は優勝に向けて、期待や苦言を書いてくれた。レッズの選手たちの顔が、三起也さんのあのタッチで描かれるのだから、三起也さんファンのレッズサポーターにとっては、たまらないコーナーだったのではないか。そして、それを日本で最初に拝見するのが僕なのだ。正直言って、公私混同の楽しい時間だった。

 最後にお会いしたのは、2014年11月18日だった。11月3日のJリーグ第31節、横浜FM戦、日産スタジアムの記者席でバッタリお会いして、勝てば優勝が決まるという22日のG大阪戦のMDP462号に寄稿していただけるという話になった。その原稿をいただいたのが18日だった。
 お身体の具合が良くないことは数年前にお聞きしていたが、そうは思えないご様子だった。せっかく描いていただいたのに、優勝できなくて本当に残念だった。
 次は、レッズが優勝したとき、その記念号にぜひお願いしたい。きっと引き受けていただけるはずだ。
 そう思っていたのだが。

 4月3日に亡くなられた望月三起也さんのご冥福を心からお祈りします。

(2016年4月7日)

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