Weps うち明け話 文:清尾 淳

#903

MDP500号私史(1) 前夜

 MDP500号おめでとうございます。

 僕が「おめでとう」と言うのは変か?
 7月17日(日)以来、いろんな人から「MDP500号おめでとう」と言われるたびに、どう反応していいか戸惑っていた。
 自分が1人でやってきたことではなく、クラブの発行あってのMDPだし、サポーターによって充実し支えられてきたMDPだし、製作現場の尽力あって生み出されてきたMDPだ。「おめでとう」と言われて「ありがとう」というのは違和感がある。何と返したらいいのだろう。

 そんなことで悩むこと自体が、思い上がりではないか。
 そう気がついたのは本当に今日(21日)だった。優勝した訳ではないが、MDP500号というのは、浦和レッズに関わるものすべての誇りであり、ある意味では他のJクラブに先駆けて、正月を迎えたようなものではないか。正月の挨拶で「おめでとう」と言われて「ありがとう」と返す人はいない。僕も一緒に「おめでとう」と言えばいいんだ。それに今まで気がつかなかったのは、どこかで「なんやかんや言っても自分は頑張ったよな」という自負がどこかにあり、それを評価して欲しいという気持ちが多少あったからだろう。

 それも隠さないことにする。
 そうだよ、俺は頑張ったよ。いろいろ厳しいことがあったけど、ここまで頑張ってきたよ。それははっきり言う。
 だがサッカーは、チーム一人ひとりの頑張りがなくては勝てないし、一人だけが頑張っても勝てない。
 同様に、MDPも清尾淳の頑張りが500号まで続く要素の一つだったことは間違いないが、清尾淳一人の頑張りで500号まで来たわけではない。自分がやってきたことを過大にも過小にも考えないようにしよう。
 そんな当たり前のことをあらためて強調しておく。

 さてMDP500号に、MDP誕生時期の話を書いた。僕が元気なうちに、一度は公式に残しておかなければならないだろうと思ったからだ。
 そして現在501号の原稿を執筆中だ。
 501号は通常号に加えて50ページの特集がある。通常分と合わせて合計84ページという中綴じ(見開きにした真ん中をステップラーで綴じる、一番簡単な製本方式)ではギリギリの厚さになる。

 50ページというのは、1992年から2016年までの25シーズンに各2ページずつあてて特集したものだ。そのシーズンに発行されたMDPの表紙を全部並べ、レッズとMDPの変遷をテキストで綴る。501号が発行される8月6日(土)は、レッズのホームゲーム500試合目にあたるから、その記念特集でもある。500号に掲載されたのは、初期の苦労話(そこが大きなポイントだった)が多かったが、501号は25年間を1シーズンずつ概括することになる。
 つまりMDPの25年史を(だいぶ端折ってだが)公式に残すのが501号だ。興味のない人には申し訳ないが、通常のMDPの企画は減らしていないので、持ち帰るのに少しかさばるのだけカンベンして欲しい。

 で、18日(月)から1シーズンずつ、それを書いているのだが、何せ紙幅が少ないのでかなり凝縮したものになってしまう。
 そこで、MDPに載せきれなかったこと、あるいはMDPに載せるにはどうかな、というものをここで紹介していこうと思う。MDPに載るものが正史だとしたら、これは私史と呼べるかもしれない。私史だから、大威張りで自分を中心に書く。

 次回からは、こんな前置きなしに入るぞ。はい、本題。

 そもそも、僕がこの仕事をしているきっかけは、1990年の年明け、会社の同僚(後輩)との「清尾さん、プロサッカーって知ってます?」「何それ?」という会話だった。
 それから浦和にプロサッカーを誘致しようという運動に関わっていった。平日の昼に比較的自由に動ける僕は、割と重宝な存在だったに違いない。自分の中では「これは必ず埼玉新聞社にとって将来プラスになるから、仕事の一環だ」と言い訳をしていた。もちろん会社にも同じ言い訳を。

 これは有名な話だが、当初は本田技研に対して誘致のアプローチをしており、現場ベースではその方向で進んでいたが、土壇場で会社がプロ不参加を正式決定、ということになった。本人同士は完全にそのつもりでいたのに、片方の親の反対で実現しなかった婚姻のようなものだ。
 頓挫するかと思われた誘致運動だが、たまたまホームタウンを定めかねていた三菱との話が持ち上がり、急速に固まっていった。最初に三菱側の代表として、浦和の誘致団体の会合に訪れたのが当時三菱サッカー部副部長兼総監督をしていた森孝慈さんだった。その会合の場所が、当時は浦和市内にあった埼玉新聞社の応接会議室だったのだ。

 そんなこんなで僕は、森さんを始め、藤口光紀さんや佐藤仁司さんらとも知り合いになっていったし、91年2月に誘致が決定した後は浸透・定着のためのバックアップにも協力していた。浦和の少年サッカー大会で森さんの挨拶の時間を作ってもらったり、マスコット(レディア)の名前を募集するシールを、県内の少年サッカー大会があるたびに、大量に配布したものだった。森さんも藤口さんも佐藤さんも「清尾って何者だ?」と思っていたかもしれない。

 92年、9月から始まるヤマザキナビスコカップに際して、マッチデー・プログラムを出そうと藤口さんと佐藤さんが決めたとき、決して清尾に任せようと思っていたわけではないはず。ただ、頼りにしていた大住良之さんから「地元に埼玉新聞社というところがあるんだから、そこに依頼した方がいい」と体よく断られ(本人確認済み)、その埼玉新聞社の中で一番良く知っているのが僕だったから、とりあえずの窓口として呼んだだけの話だ。

 1990年の1月から92年の7月までの2年半。これが僕の人生の大部分を決める発酵期間のようなものであり、浦和レッズ・オフィシャル・マッチデー・プログラムが今のような形になる運命が定まっていく期間だった。

(2016年7月22日)

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