Weps うち明け話 文:清尾 淳

#945

「2002年なら」

 うちに来ないかな。
 そう感じる選手は何人かいるが、柏レイソルの武富孝介はその中でも「うちに来ればいいのに」と強く思う選手だった。
攻撃的なポジションをフレキシブルにこなす良い選手だから、という前提があるのはもちろんだが、彼がFC浦和で全国優勝した同期にはその後レッズでプロになった山田直輝や永田拓也がおり、その年代はレッズにとっても僕にとっても1つのキーになっているから、よけいだった。

 武富や直輝がFC浦和で全国を制した2002年は、レッズのGMに森孝慈さんが就任し、チップチームだけでなく育成部門でも本格的な強化活動を開始した年で、それまではジュニアユースの新中学1年生選手をほぼセレクションだけで決めていたのだが、村松浩さんがアカデミーセンター長に就任して、小学生時代からスカウティングを行うようになった。浦和のサッカー少年団から選抜されたFC浦和の選手は当然その対象になるし、全国優勝という“折り紙”も付いている。
そのころ僕はまだ埼玉新聞社に在籍していたが、少年スポーツを扱う部署から離れてレッズだけを仕事にしていたから、武富たちを直接取材することはなかったが、FC浦和の優勝というのはうれしかったし、そこから何人もの選手がレッズのジュニアユースに入って欲しい、と思っていた。そして、実際に多くのFC浦和出身選手がジュニアユース入りしたというのは聞いていたが、当時はまだレッズの育成専門広報紙「Little Diamonds」(現在は休刊)がスタートしていなかったので、それほど頻繁に取材には行かなかった。
 直輝たちが夏の日本クラブユース選手権(U-15)で優勝した2005年は、「Little Diamonds」創刊2年目で張り切っていたし、全国大会だからMDPにも大きく載せられる。毎試合のように会場のJヴィレッジまで通っていた。そのころJリーグはナイトゲームなので、トップチームの試合があっても遠いアウェイでない限り、Jヴィレッジを15時ごろに出ればギリギリ19時の試合に間に合う、という動きがザラだった。若かったなあ。

 その年のレッズジュニアユースが、この日本クラブユースと高円宮杯の2冠を達成したのは周知のとおり。
この世代は、レッズが小学生のスカウティングを始め選手の獲得にも力を入れて育成部門を強化した言わば一期生なのだ。そして僕にとって2005年は、24年間勤務した会社を辞めて独立し、MDPを中心にレッズ関連の仕事で食っていく、という歩みを始めた年。48歳のフリーランス1年生になったときだった。
冒頭の「1つのキー」とはそういう意味だ。ちなみに2005年にクラブユースで勝ち進んだレッズジュニアユースメンバーには、3年前の全日本少年サッカー大会で優勝したFC浦和のメンバー5人の選手がいたと思う。

 さて武富の話に戻る。
 彼が活躍している姿を見るたびに感じる疑問があった。
 どうして中学生になるとき、レッズジュニアユースに入らなかったのだろう。あの年、全国優勝したFC浦和のメンバーに、育成の強化を目指すレッズが声を掛けなかったはずはなく、それを振り切ってレイソルに進んだ理由は何だったのだろう。
 直輝がレッズに帰ってきたら知っているか聞いてみよう、と思っていたのだが、まさか武富本人に質問できる機会が来るとは思っていなかった。それほど武富のレッズ移籍のニュースは突然だった。
 1月11日、埼スタで行われた新加入選手記者会見の後、囲み取材があり、どう考えても個人的な興味としか思われないだろうから、最後に質問した。詳細はクラブオフィシャルサイトの「サイトメンバーズ」に掲載されている。

 親の勧めで。
 その言葉を聞いたとたん、一気に年代のフィルムが2002年に巻き戻り、疑問が氷解した。
 なるほど。2002年当時の浦和レッズはまだタイトルもなく、J2から復帰したばかり、という位置。一方、レイソルもタイトルはナビスコ杯1回だけという状況はあまり変わらないが、育成という分野では、Jリーグ発足前から日立サッカースクールという定評のある組織があったから、レッズの何歩も先を行っていた。当時、柏のトップチームに何人の育成出身選手がいたかは定かでないが、レッズで公式戦に出たことのある育成出身選手は高橋厳一と千島徹ぐらいではなかったか。少なくとも「活躍」という表現が当てはまる選手は一人もいなかった。だから、その年から本格的に育成部門の強化を始めたのだが、まだ何の実績もなかったと言っていい浦和レッズのジュニアユースと、伝統のある柏のジュニアユースを比較したら、親としてどちらに入れたくなるかは、明白だ。2002年なら。
 武富の親御さんは正解だった。彼がレッズのジュニアユースに入っていたら、という仮定の話は意味がない。現実として武富孝介はプロで活躍する選手に成長している。本人が親の勧めにしたがったのも正解だったと言える。

 ここから「大正解」に発展させるには、彼が生まれ育ち、初めての全国優勝を経験した浦和で、今度はプロでの優勝を手にすることだ。
 武富孝介くん。あえて、おかえり、と言わせてもらう。

(2018年1月12日)

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